先日、アメリカに今も続くカースト制度について書いた。
そこで自分にとって新たな発見となった、人種差別をおそらく人類で初めて形成するのに貢献したある本について触れた。
幸いなことに、本日紹介する本を通して、その経緯や詳細について知る機会を得た。
前回はブログの最後に Guy Kawasaki と John Biewen という作家のポッドキャスト内のやり取りを紹介したが、そこで取り上げられていたのがこちらの歴史家、イブラム・X・ケンディだ。
1982年、ニューヨーク市生まれ。
歴史学者、作家。ボストン大学〈反人種主義研究・政策センター〉の創設者であり所長をつとめる。
アメリカの人種差別の歴史を描いた『はじめから烙印を押されて Stamped from the Beginning』は全米図書賞(2016年、ノンフィクション部門)を受賞。
2020年、タイム誌の〈世界で最も影響力のある100人〉に選ばれた。
絵本『アンチレイシスト・ベビー』(合同出版)も幅広い年齢の人々に読まれている。
HP: https://www.ibramxkendi.com/
『アンチレイシストであるためには 』 イブラム・X・ケンディ著、翻訳・児島 修
権力が作り出した幻想、として「人種」をとらえた本書では、人はなぜ人種という階級に隷属し、その枠組みから抜け出せないのかを自身の経験をたどることで、思考を丁寧に説明することで、解説していく。
私が紹介した人種という概念を作った一冊の本についても詳しく書かれていて、大変興味深いので今回は少し長いが、抜き書きする。
P. 57
人種という概念を初めてつくりだした世界的な権力者は、一五世紀のポルトガルのエンリケ王子だろう。おそらく彼はレイシズムパワーを体現した初めての人物であり、”アフリカ人”というつくられた人種を商品として独占的に扱った初めての奴隷商人でもあった。黒人奴隷の取引を指揮していたエンリケ王子は、「航海王子(ナビゲーター)」の異名をとっていたが実際には大航海時代のポルトガルの国の外に出ようとはしなかった。
エンリケ航海王子が航海したのは、ヨーロッパの政治経済の海であり、世界初の大西洋を横断する奴隷貿易の海だった。ポルトガル王の弟だった時期も、その次の王の叔父だった時期もあるエンリケ航海王子が、実際には為さなかった公開によって称えられ、実際にした奴隷貿易についてはなかったことにされている。いかにもレイシズムパワーをふるった史上初の人物らしい。
この王子はぼくのなかにも息づいていた。エンリケという名は何世紀にもわたって受け継がれ、大西洋を越え、やがてぼくの父方の家系にも伝わった。兄には母方の一族の名がミドルネームとしてつけられたので、ぼくには父方の一族の名がミドルネームとしてあたえられた。選ばれたのは、奴隷だった曾祖父の名前「ヘンリー」。父は、ヘンリーはポルトガル語ではエンリケであり、航海王子と同じ名であることを知らなかった。ぼくはのちにこの名前の歴史的な意味を知り、改名を決意した。現在のぼくのミドルネームは、ズールー語で”平和”を意味する「ゾラニ(Xolani)」だ。それはまさに、エンリケの奴隷商人がアフリカ(そして南北アメリカとヨーロッパ)から奪い、ぼくの曾祖父ヘンリーから奪ったものだ。
エンリケ航海王子は一四六〇年にこの世を去るまで、ポルトガル人がイスラムの奴隷商人の活動範囲を避けて大西洋を航海し、アフリカ西海岸の航路を開拓するのを支援した。その結果、それまでとは異なる種類の奴隷制度が生まれた。
近代以前のイスラムの奴隷商人は、近代以前のイタリアのキリスト教徒と同じく、レイシズムポリシーをかかげてはおらず、現在アフリカ人やアラブ人、ヨーロッパ人と呼ばれている人々を区別することなく、単に奴隷にしていた。だが近代の黎明期、ポルトガルは”アフリカ人奴隷”の独占的な貿易をはじめた。エンリケ航海王子が支援した貿易船は、その先は世界の果てだと恐れられていた西サハラ沖のボジャドール岬を回り、捕らえたアフリカ人をポルトガルに連れかえった。それは新たな奴隷の歴史の始まりだった。
エンリケ航海王子のことを初めて伝記に記録した(かつ擁護した)人物はゴメス・デ・ズラーラだ。ズラーラは世界で初めて”人種”という概念と、そこから生まれるレイシズムという思想をつくりだす人物にもなった。時のポルトガル王アフォンソ五世は、”最愛の叔父”エンリケ航海王子の輝かしいアフリカ”冒険譚”を記す伝記執筆者として、王室の年代記編者で、「エンリケ王子のキリスト騎士団」の忠実な司令官でもあったズラーラを任命した。ズラーラは一四五三年、ヨーロッパで書かれた初めてのアフリカに関する書物となる『ギニアの発見と征服の年代記 The Chronicle of the Discovery and Conquest of Guinea』を書きあげた。
この書物には、一四四四年にポルトガルのラゴスでエンリケ航海王子が初めておこなった大規模な奴隷の競売の様子も記録されている。アフリカから連れてこられた人々には、「じゅうぶんに肌の色が白く、見た目も良く、体格の均衡もとれている」者もいれば、「混血やエチオピア人のように黒く、とても醜い」者もいた、と記述されている。ズラーラは、肌の色や言語、民族が多様な人々を奴隷として扱えるようにするために、一括りの集団と見なした。
赤ん坊はこの世に生れ落ちてから名前をあたえられるが、世の中のほかの現象はたいてい、人間によって名前をあたえられるずっと前から存在している。ズラーラも、黒人が人種の一つだとは言っていない。
「人種」という語は、フランスの詩人ジャック・ド・ブレゼによる一四八一年の狩猟の詩の中で初めて書き言葉として登場した。その後、一六〇六年にはヨーロッパの主要言語の辞書で初めて正式に定義された。中毒性の高いタバコの種をフランスにもちこんだ外交官ジャン・ニコが、みずからが編纂した辞書『フランス語の宝 Tresor de la langue francaise』のなかで、「人種とは、(略)血統を意味する」と定義したのだ。「したがって、人間や馬、犬、ほかの動物の善し悪しは血統がものをいう」
つまり事の始まりから”人種という概念”をつくりあげることは、”人種のヒエラルキー”をつくりあげることにほかならなかったのだ。
ズラーラがアフリカから連れて来られた多様な人々をたった一つの集団に括ったのも、まさにヒエラルキーをつくりだすためだった。それがレイシズムの始まりだった。
レイシズムを成立させるためには、まず人種が必要だ。それは、たとえばパイの中身を支えるパイ皮のように不可欠な材料だ。パイ皮をつくったら、つぎはパイの中身だ。
ズラーラはそれにあたって”エンリケ航海王子の世界への福音伝道という使命を正当化する”という欺瞞に満ちた理由をもちいた。黒人種の人々は道に迷い、「獣のように生き、理性的な人間としての習慣がない。善の概念を理解できず、ただ野蛮で怠惰な生活をすることしか知らない」ので、奴隷にすることで救えると主張したのだ。
一五世紀にアメリカ大陸に到着したスペインとポルトガルの植民地開拓者たちも、多様なアメリカ先住民を一括りにして「インディアン」と呼び、一六世紀のブラジルでは「ネグロス・ダ・テラ(現地の黒人)」と呼ぶことで、人種という概念をつくりだした。
一五一〇年、スペインの弁護士アロンソ・デ・ズアゾは、彼いわく”野獣のような”黒人を「力仕事に強く、軽作業しかできない軟弱な現地人とは正反対だ」とアメリカ先住民と対比した。レイシズムの概念がもちこまれたことで”強い”と見なされたアフリカ人奴隷を大量に輸入することも、”弱い”と見なされたアメリカ先住民を虐殺することも正当化された。
ラティニクスと中東系を除く人種は、一八世紀のヨーロッパを中心にして起こった「啓蒙時代」と呼ばれる思想運動のなかで人為的につくられ、区別されるようになった。
一七三五年、スウェーデンの博物学者カール・リンネは、著書『自然の体系(Systema Naturae)』のなかで、人類の”人種的ヒエラルキー”を次のように定めた。
リンネは白、黄、赤、黒という肌の色の違いについて人種を分類し、それぞれを世界の四つの地域に結び付けて特徴を説明した。このリンネの分類法は、のちの文明社会で人種がつくりだされる際に用いられる青写真になった。その影響は今日にいたるまでに続いている。もちろん、これは中立的な分類法ではなかった。人種は決して中立的な分類法にはなりえない。それはレイシズムに基づく権力が、意図的につくりだしたものだからだ。
リンネはヨーロッパ人(Homo sapiens europaeus)を”人種的ヒエラルキー”の最上位に位置づけ、もっとも優れた特性があるとし、「精力的で筋肉質。流れるような金髪、青い瞳。とても賢く、独創的。ぴったりとした衣服。法律によって支配される」と説明した。
アジア人(Homo sapiens asiaticus)「陰鬱で険しい顔つき。黒髪、黒い瞳。厳格、高慢、貪欲。ゆったりとした衣服。意見によって支配される」とし、人種ヒエラルキーの中位に位置づけた。
アメリカ人(先住民のこと)(Homo sapiens americanns)の特徴は「太い眉毛の黒髪。広い小鼻。険しい表情。ヒゲがない。頑固、快活、自由。身体に赤い線をペイントする。習慣によって支配される」とした。
そしてアフリカ人(Homo sapiens afer)を”人種ヒエラルキー”の最下位に位置づけ、「だらしなく、怠惰。黒く縮れた髪。絹のような肌。平らな鼻。厚い唇。女性の乳房は垂れさがっている。狡猾、緩慢、不注意。身体に脂を塗っている。移り気によって支配される」と記述している。
ズラーラは、一四三四年から一四四七年にかけて九二七人のアフリカ人奴隷がポルトガルに運ばれ、「その大半が真の救済の道へとみちびかれた」と記している。ズラーラによればそれはエンリケ航海王子のもっとも偉大な功績であり、歴代の教皇たちにも祝福されたという。エンリケ航海王子に見返りとして分けあたえられたという約一八五人もの奴隷については言及はない。
依頼主の王に忠実なズラーラは人種間に違いがあると訴え、エンリケ航海王子(とポルトガル)が奴隷を取引したのは金のためではなく、これらのアフリカ人を救済するためだったと世界に信じ込ませようとした。解放者たちがアフリカにやってきた、というわけだ。
スラーらは一四五三年に、書き上げた『ギニアの発見と征服の年代記』を依頼主のアフォンソ五世に紹介文を添えて提出した。ズラーラの望みは、この書物によって、エンリケ航海王子の名が「偉大な称賛の記憶とともに」世界の人々の脳裏に刻み込まれることだった。エンリケ航海王子が王室の富を守ろうとしたのと同じように、ズラーラはエンリケ航海王子の記憶を守ろうとしたのだ。一四六六年のある旅行者の所見によれば、アフォンソ5世は、アフリカ人奴隷を諸外国に売ることで「国内から集めた税金」よりも多くの富を得ていた。人種という概念を生み出した目的は果たされた。
エンリケ航海王子の奴隷貿易に関するレイシズム的なポリシーは、イスラムの奴隷貿易商人を介さずに商売をするという現実的な目的のためにつくられた狡猾は発明だった。奴隷貿易が二〇年近く続いたあと、ズラーラは、アフォンソ五世から人身売買という旨味の多いこの商売を擁護してほしいと依頼を受けた。そこで”黒人という人種”をつくりあげ、さらにレイシズムという思想をつけくわえたのだ。
このように、レイシズムの権力は利己的な理由によってレイシズムポリシーを生みだし、それを正当化するためにレイシズム思想を必要とする。この因果関係は、レイシズムの始まり以来、続いている。
伝記シリーズ「ジュニア・ブラック・アメリカン・オブ・アチーブメント」を子どもの頃にたくさん読んだぼくは、レイシズムポリシーはレイシズムという思想から生まれたと学んでいた。そのレイシズムを生んだのは無知と憎しみだとも学んだ。無知と憎しみが、レイシズムの根本にあることも。
だが、この理解は物事の順序を正しくとられていなかった。それに、レイシズムの根本にあるのはエンリケ航海王子からトランプ大統領にいたるまで、無知と憎しみではなく、つねに権力の私利私欲だった。
レイシズムポリシーの背後には経済的、政治的、文化的な強い私利私欲 -ポルトガル王室や奴隷商人の場合は昔ながらの富の蓄積- がある。ズラーラの系譜につらなる有力で狡猾な知識人たちは、その時代のレイシズムポリシーを正当化するためにレイシズム思想を生みだし、その時代に存在した「人種的不公平」はポリシーではなく特定の人々のせいだと責任転嫁してきた。
長い抜き書きとなったが、すばらしい学びが詰まっている。
レイシズムというのは人間によって作り出された概念で、もともとは権力者の私利私欲を満たす手段として用いられたという考察には、まさに目から鱗が落ちる思いだ。
無知と憎しみなんていう形のないあやふやなものから始まるのではなく、ようは目に見えて触れる、カネだ。
カネになるから、人種という概念をつくって、儲ける、もうそれだけ。
このズラーラとかいう伝記作家も執筆の見返りに、しっかり奴隷という分け前をもらっているあたり、結局はカネだ。
アフリカの救済などと、自らの行いを正当化しているのが実にいやらしい、というか心底汚らわしい。
考えてみれば植民地支配にしても、おおよそ後世から悪とされる人類の行いというのは、とどのつまり、私利私欲から始まっているのかもしれない。
先日の記事からの続き、今回はこの部分を扱ったが、この本には人種という幻想に対処するために人類が進むべき方向性を示している。
いわく、「ぼくたちには、レイシストとして人種的階層を維持しようとするか、アンチレイシストとして人種の公平性をめざそうとするか、このどちらかの立場しかない」。
ぜひじっくり、時間をかけて読んでほしい一冊。