本日の一冊。

『嫌われる勇気』で知られる岸見一郎氏が解説する、リーダーシップのあり方。

アドラー心理学の第一人者は、組織におけるリーダーシップをどうとらえているか。

今回も大変勉強になる。

大事だなと感じたのは、組織で働くということは、上司・部下の立場で人間の関係性を見るのではなく、やはり人と人で見つめ直すこと。

さっそく抜き書きへ。

 

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第1部は、月刊経営誌「日経トップリーダー」に2018年3月号から寄稿を続けた連載をまとめました。
3つのテーマに分かれています。

 

「リーダーシップについてのモノローグ」 P. 15 

 

第1章 リーダーは組織の中でどうあるべきか、何をしなければならないか、あるいは、何をしてはいけないか 

 

第1講 カリスマはいらない P. 16 

 この第1章においては、リーダーが組織の中でどうあるべきか、何をしなければならない、あるいは、何をしてはいけないかを考えてみます。従前のリーダー像とは違った考えを提示することになるかもしれませんが、進取の気性に富む人にとっては当たり前のことかもしれません。

 ある中学生が医師にこんな質問をしました。

 「医師が看護師や検査技師のような裏方と一緒に仕事をしていくことの重要性は何ですか」

 医師はこう答えました。

 「看護師や技師は『裏方』ではないというところが重要だね」

 今はそれぞれの専門医療従事者がチームとして治療やケアを行っているので、他の医療従事者は決して裏方ではないのです。それにチーム医療というような言葉を使わないこれまでの医療現場であっても、医師が一人で治療することはできませんから、スタッフの協力は必要不可欠です。

 医療チームでも会社組織でも、リーダーは役割名であり、上司と部下は対等ですが、職責は違い、リーダーは教育者であることが求められます。

 ところが、この教育は時間と手間暇がかかるので、上司はもどかしい思いがすることがあります。

 ある出版社の話です。

 上司は部下が書く原稿が気に入らないと、自分で書き直すというのです。「そうしないと締切に間に合わないから」というのですが、上司が書き直してしまうと、完全な原稿にはなっても、部下は何も学べません。

 どんな仕事でも部下に任せることにはリスクが伴いますが、部下を信頼しなければなりません。その上、部下が失敗したら、その責任は上司が取らなければならないのです。

 アンフェアだと思う人がいるかもしれませんが、そもそも部下が失敗するのは上司の指導が適切ではないからです。部下の資質に問題があると思いたい人はいるでしょうが、リーダーはそう思ってはいけないのです。

 私が十年前に冠動脈のバイパス手術を受けた時、執刀医は三人いましたが、その中で一番若い医師が主治医でした。今は若い人がリーダーになることはどんな組織でもあることです。

 そのような若いリーダーは有能でしょうが、他の人はリーダーの仕事に協力することが必要です。たとえ有能であっても、経験が十分ではないということはありうるからです。

 他方、リーダーは必要な時には援助を求めなければなりません。そうすることを前任者を引き合いに出して批判する人がいたとしても、自分がどう思われるかではなく、組織にとってプラスになることだけを考えなければならないのです。

 部下もリーダーに「協力しよう」と思わなければなりません。次講は、部下に「協力したい」と思ってもらえるリーダーになるためにはどうすればいいかを考えてみましょう。

 

第2講 尊敬は強制できない P. 20 

 どうしたら部下に協力してもらえるリーダーになれるでしょうか。一言でいえば、尊敬されることです。

 問題は、この尊敬は強制できないということです。「私を尊敬しなさい」といってみても、尊敬に値しないと部下に判断された上司は部下から尊敬されることは決してありません。

 尊敬されるためには、まず、仕事についての知識が必須です。

 ある時、駅の窓口で電車の切符を買い求めました。何度も乗り換えなければならない複雑な経路をいうと駅員は一度で私の指示を理解し、たちまち切符が機械から出てきました。

 それを隣で見ていた駅員の若い部下が「すごい」と驚嘆しましたが、上司の駅員はただ一言「仕事だからな」と答えました。

 次に、仕事についての知識を部下に教えることができなくてはなりません。

 例えば、道をたずねられた時に、自分ではわかっているけれど言葉で説明するのは面倒なので一緒にその場所まで行くというのでは道を知っているとはいえません。道順を言葉で説明できなければ知っているとはいえないのです。

 このように考えるとリーダーであることを部下に知られたくないので、部下を本来の仕事の場である「第一の戦場」ではなく、「第二の戦場」に連れ出します。

 そこで、仕事とは直接関係ないことで部下を理不尽にりつけます。時に歯向かってくる部下がいますが、そのような部下を押さえつけることができれば、いよいよ優越感を持ちます。

 しかし、そうした優越感は劣等感の裏返しでしかありません。本当に有能な上司は自分が優れていることを誇示しません。

 第三に、上司が部下を尊敬しなければなりません。

 上司の指導が適切であれば、部下は力を伸ばし、やがて部下が上司を超える日が必ずきます。すると、上司を通り越して、重要なプロジェクトを任されることになります。そういう時には、自分の教育が適切だったと思えばよく、部下を妬むような上司は論外です。

 たとえ今は知識も経験も足りず、目覚ましい業績を上げられない部下であっても、若い人のほうが自分よりも知性も感性も優れていると思うことです。部下を尊敬する上司は部下から尊敬されます。

 第四に、働き手としてのモデルでなければなりません。上司も当然仕事で失敗します。その時に失敗を隠したり弁解したりしてはいけません。謝罪せず失敗を隠し、発覚する場部下に責任転嫁をするような上司は尊敬はされません。

 パソコンを自在に使える若い部下は自分よりも早く仕事ができます。使えないのであれば部下に教わればいいのです。ただ「昔はもっと働いた」といっているようでは駄目なのです。

 以上のように部下に接することができる上司は、部下を自分と対等に見ているのです。次講は、部下と対等に接するというのは具体的にどうすることなのか考えてみます。

 

第3講 叱るのをやめよう P. 23 

 どうしたら上司は部下と対等に接することができるでしょうか。

 まず、部下にぞんざいな言葉遣いをしないことです。上司と部下は対等であることが分かっていない上司は自分が偉いと勘違いしているので、話し方も上から目線になっていることがあります。

 部下に敬語を使ってもいいと私は思うのですが、抵抗がある人はせめて部下に何かしてほしいことがあれば命令しないでお願いしましょう。「~してくれると助かる」とか「~してくれませんか」というふうにです。

 次に、叱らないことです。部下が失敗すると叱る人がいますが、叱るというのは部下を対等に見ていないということです。

 部下が失敗しても、叱る必要はありません。同じ失敗をしないために、なぜ失敗したかを叱らないで言葉で説明すればいいだけのことです。

 初めから仕事をスムーズにこなせるような部下はいません。仕事をスムーズにこなせないことは部下にとっては劣等感になります。部下を叱るとこの劣等感は強められ、自分は無能である、自分には価値がないと思うようになります。

 叱ることの一番の問題は、部下が自分に価値がないと思うことです。直近の失敗を叱るだけでなく、「こんなこともできないのか」と、失敗について指摘するというより人格攻撃をすれば、部下はいよいよ自分に価値があると思えなくなります。

 アドラーは「自分に価値があると思える時にだけ、勇気を持てる」といっています。この勇気は、仕事に取り組む勇気です。

 「私は上司から叱られたからこそ伸びた、今の自分があるのは私を叱ってくれた上司のおかげ」と、叱ることは必要と主張する人はいます。しかし、そのようにいう人は、もともと力がある人だったので、上司に叱られ勇気をくじかれても仕事を続けられただけであって、同僚の多くは伸ばせたはずの力も伸ばせなかったのです。

 仕事に取り組んで思うような成果を収めることができなければ、上司は部下を叱ります。叱られなくても結果を評価されることは自分の実力を思い知らされるので怖いのですが、その上、上司に叱られるといよいよ自分は仕事ができないと思うことになります。

 私は大学でギリシア語を教えていました。ある年、学生のひとりがギリシア語を日本語に訳そうとしなかったことがありました。「なぜ、訳さないのか」とたずねたところ、「この問題を間違えて、できない学生だとは思われたくなかった」というのです。

 私は「どこが理解できていないかがわからなければ教えることはできない。間違えてもできない学生だとは思わない」といいました。すると、次の時間からその学生は失敗を恐れないようになり、ギリシア語が読めるようになりました。

 たとえ今は失敗をすることがあっても、部下に可能性を見て取り、部下の力を伸ばすために的確な指導をすれば、部下は上司から対等に見られていると思えます。

 次講は、部下と対等に接するために、叱る代わりに何ができるかをさらに考えてみましょう。

 

第4講 ほめるのをやめよう P. 26

 部下と対等に接するために、叱る代わりに何ができるかを考えてみましょう。

 私が叱るのをやめようという話をすると、必ず、それではほめてもいいのかとたずねられます。

 ほめることには二つの問題があります。

 一つは、対等な関係でほめることはできないということです。

 親のカウンセリングに同行してきた小さな子どもがカウンセリングの間、静かに過ごせたら、親は「偉かったね」とほめますが、夫のカウンセリングに同行してきた妻に「偉かったね」とほめないでしょう。大人は子どもを対等とは見ていないからほめるのです。

 もう一つは、ほめられると自分に価値があるとは思えなくなるということです。

 親は子どもがおとなしく待てないと思っていたので、思いがけず待てた時、子どもをほめるのです。他方、カウンセリングに同行してきた妻をほめないのは、当然待てることを知っているからほめないのです。もしも夫が妻をほめたら、ほめられた妻は馬鹿にされたと思うでしょう。

 それでは、仕事で評価をすることはどうなのかとたずねられることがあります。仕事においては、評価しなければなりません。しかし、それはあくまで評価であって、ほめることではありません。

 大学でギリシア語を教えていた時、教師である私は学生を評価しなければなりませんでした。学生の訳が正しければ正しいと、間違ったら間違っているいいました。これは評価であり、正答した学生をほめるわけではありません。間違えた学生には間違いであることを指摘しますが、叱るわけではありません。

 学生が間違えたときもほめなければならないと教師が思って、学生の評価に手心を加えたり手加減したりするのはおかしいでしょう。間違いを教師に指摘され落ち込む学生はいるかもしれませんが、学生は次回間違うことがないように勉強すればいいだけのことです。

 仕事の場面で部下をほめると、取ってつけたようなおだてだと思うでしょう。

 失敗が目立ち、成績が良くない部下に対して、「評価に手心を加えれば意欲駅に仕事に取り組むだろう」と考えて部下をほめると、自分が対等に見られていないと思うでしょう。

 自分でも思うような結果を出せなかったことを知っているのですから、叱ることで追い打ちをかけなくてもいいですし、失敗したことによる痛手を上司が和らげようとしなくてもいいのです。

 このような時、ほめてくれた上司を「優しい」と思うというより、「自力で失敗を挽回できないと思われている」と考え、いよいよ自分に価値があるとは思えなくなるでしょう。

 上司はただ評価をすればいいのです。公平に評価されたら、たとえ良くない評価であっても、部下はよりよい結果を出す努力をするでしょう。

 叱ってもいけない、ほめてもいけないのなら、リーダーはどうすればいいのでしょうか。さらに考えてみましょう。

 

 

 続きは次回

 

 

 

 

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