小学一年生の春、はじめての授業参観のこと。
国語の時間、先生が黒板に「登る」と書いて、言いました。
「この言葉を使って文をつくりましょう」
私は手を挙げて、「虎が木に登る」と言い、他の子たちも、「猿が登る」「人が山に登る」と続きました。
先生はそれらを一つひとつ黒板に書きながら、こう言いました。
「全部いい答えです」
そのとき、子どもながらに不思議な感覚を覚えました。今でもまだ記憶があるくらいなので、相当強く印象に残ったということだと思います。
それは、答えが一つじゃなくていい——そんな世界があるんだぁという発見でした。
それ以降に学ぶ算数や理科の世界では、正解は常に一つでした。速く、正確に、その一つにたどり着く者が評価されます。優劣がはっきり目に見えるし、なにより勝ち負けがわかりやすい。
教育の歴史を振り返って見ても、現場におけるこの「唯一の正解」モデルは、学ぶ側の理解と評価する教師側の測定のしやすさもあって、広く浸透しました。
でもこの構造は、思考の幅を狭め、「正解を出せる者」と「出せない者」との間に見えないヒエラルキーを生んできたとも思います。
私は現代社会もまた、この構図の上にあると考えています。
特に今日のようなテクノロジー主導の社会では、一部の専門家や設計者が“最適な答え”をつくり、大多数の人間は、その答えに“従う側”になる。
プラットフォームやアルゴリズムが示すのは、あくまで「効率的な答え」のはずなのですが、それが「唯一の道」と誤認されやすい。
だけど、世界には“違う文”が存在しうるのです。
「虎が登る」も「猿が登る」も、それぞれに意味を持ち、想像を喚起します。そこには勝ちも負けもなく、優も劣もありません。
哲学者ウィトゲンシュタインは「言葉の意味はその使用のされ方にある」と述べました。つまり、ある語がどのような文脈で用いられ、どのような意味を帯びるかは、常に流動的で、個々の経験や文化に依存すると。
この視点は、「多様な文脈に開かれた問い」をどう評価するかという教育的課題に通じている気がします。
そう考えると、「全部いい答えです」という言葉は、評価ではなかったのかもしれません。
それは、ひとりひとりが自分なりの意味を生み出すことを肯定する態度だったと言えると思います。
そして、そうした態度こそが、社会にとって最も失われやすいけど、最も大切にすべき価値、なんだと思います。
「一つでない正解」は、しばしば効率の論理と相容れない。けれど、思考の多様性や想像力は、そこにこそ芽生えます。
私は今でも、あの日の黒板に並んだいくつもの“登る”の文を、自分の中に残しておきたいと思います。◾️