2023年、ニュージーランドの首相ジャシンダ・アーダーンは、突如として政界から引退しました。
当時43歳。世界が混乱する中、異例の若さで国を率いてきたリーダーが、静かに「もうガソリンが残っていない」と言って去っていきました。
それから2年後の2025年5月、英Guardian紙が公開したロングインタビュー(2025/5/31)は、彼女の言葉でその理由と信念を語った貴重な記録です。
この記事を通じて見えてくるのは、「共感」を武器に、誠実に戦ったリーダーの姿だと思います。
この記事の中で特に気になったポイントをピックアップします。
※ 下記( )内は拙訳
“A very ordinary person in extraordinary circumstances.”
ジャシンダ・ケイト・ローレル・アーダーンは1980年、ニュージーランド北島の小さな町に生まれました。
父は警察官、母は学校の給食スタッフ。大学進学も彼女と彼女の姉が家族の中では初めてだったとのこと。
“A very ordinary person who found themselves in a set of extraordinary circumstances.”
(ごく普通の人間が、普通じゃない状況の中にいた、ただそれだけのことです)
自分は特別な資質を持つスーパーヒーローではない。
でも、世界的危機や悲劇が次々と起こる中で、偶然にも、その中心に立たされていた――ただそれだけだ。
これが彼女のスタンスなんですね。
かつてはモルモン教徒として育ち、一軒一軒回って信仰を説いた時期もあったそう。
それが後に、政治の舞台での「対話力」や「諦めなさ」となって活きてきます。
“Empathy is a kind of strength.”
(共感もまた、強さのかたちなのです)
振り返って、この言葉こそ、アーダーンの政治哲学の核にあったと思います。
2019年3月、クライストチャーチのモスクで、白人至上主義者による銃乱射事件が発生しました。
51名の尊い命が奪われ、世界中に衝撃が走りました。
アーダーンはすぐに現場へと向かい、黒いスカーフをまとって、犠牲者家族を一人ひとり抱きしめ、涙を流しました。
そして、全世界に響き渡った演説の中で、こう語りました。
“They are us.”
(彼らは、私たちなのです)
“Many of those who will have been directly affected by this shooting may be migrants to New Zealand, they may even be refugees here.
They have chosen to make New Zealand their home, and it is their home.”
(この事件で直接被害を受けた多くの人々は、ニュージーランドに移住してきた人たちかもしれません。難民として来た人もいるでしょう。彼らはこの国を自らの故郷に選んだのです。そして、ここは確かに彼らの故郷なのです)
この発言は、単なるスローガンではありませんでした。
彼女はそのわずか10日後に、半自動小銃などの軍用型銃器の禁止を盛り込んだ法改正を断行します。
犠牲となった方々、その家族へ、政治家ができる最善の弔いといえるかもしれません。
共感は、ただの感情表現ではなく、「政治的決断の原動力」になりました。
コロナ対応と「理性のリーダーシップ」
2020年、世界がパンデミックに揺れる中でも、アーダーンは冷静かつ迅速に対応しています。
国境封鎖、追跡調査、ロックダウン──いずれも強い措置でしたが、結果的に多くの命を救うことになりました。
“You’ll be attacked for doing too little or you’ll be attacked for doing too much. And I know what I would choose.”
(やらなすぎても、やりすぎても攻撃される。それでも私はどちらを選ぶべきかを理解している)
彼女の選択は、理性と共感が交差するところにあったと思います。
変わりゆく空気──「やさしさ」はもう通じないのか?
このあと、やさしさや共感で政治を続けるには、あまりに世界が荒れていったのだと思います。
2022年、オークランド空港のトイレで、見知らぬ女性からこう言われてしまったと言います。
“Thanks for ruining the country.”
(国を壊してくれてありがとう)
“It was the tenor of the woman’s voice… the nonspecific rage…”
(その声の調子と、漠然とした怒りに、ただ圧倒された)
漠然とした理由の見えない怒り。
彼女はこうした怒りを、“nonspecific rage(根拠のない怒り)”と表現しています。自身に向けられたのは、政策の是非ではなく、「時代そのもの」に対する漠然とした苛立ちだったと振り返っています。
彼女の中で、何かが静かに決壊しはじめていたと語っています。
「何かが音もなく壊れ始めている」と。
議会前には反ワクチンの群衆が集まり、ヒトラーの口ひげを描かれ、「独裁者」と罵られることもあったそう。
「共感」や「理性」は、いつのまにか一部の人たちの憎悪の対象となっていきました。
なぜ、彼女は辞めたのか?
アーダーンの辞任は、世間では「バーンアウト」とも言われていました。
私もニュースで彼女の最後のスピーチを見た際は、もうほとほと疲れ果てた、といった印象でした。
でも今回のインタビューでは本人は明確に否定しています。
“Burnout is very different from making a judgment in yourself as to whether or not you’re operating at the level you need to be.”
(燃え尽きたわけではありません。ただ、自分がもうベストな状態で仕事を続けられないと判断したのです)
“I was probably in power in spite of the power bit.”
(私は、権力が好きだから政治家だったのではありません)
首相という職責の中で、彼女は自らの「限界」をきちんと見極めていた、ということなのでしょう。
“People only see the decisions you made, not the choices you had.”
コロナ対応では、ワクチンの副反応で職を辞した人から「あなたのせいで」と言われる場面もあった。
“People only see the decisions you made, not the choices you had.”
(人々は、あなたが下した決断だけを見る。その背景にあった無数の選択肢は見ようとしない)
この言葉に、政治家の孤独が滲みます。
麻生元首相も「どす黒いまでの孤独」に耐えるのが首相だと、以前話していたのを思い出します。
リーダーは何を選び、何を捨てるのか。
“Saying you believe in empathy is an act of strength.”
イーロン・マスクが「共感こそが西洋文明の弱点だ」と発言したことを引き合いに、アーダーンはこう反論します。
“Saying loudly and proudly that you believe in empathy and that you’ll govern in that way is an act of strength.”
(共感を信じ、それに基づいて統治すると公言すること自体が、強さの証明なのです)
本当の強さとは何だろう、と考えさせられます。
“Kindness will win the day.”
トランプ政権に入りハーバード大学も騒動の真っただ中ですが、アーダーンはいま、そのハーバード大学で共感的リーダーシップを教えているそうです。皮肉なものです。
政治家としての第一線からは退いたわけですが、彼女の思想は生き続けている。
これは一つの希望だと感じました。
Guardian紙は、インタビューの最後をこう結んでいます。
“Decent, resolutely human, and only 44, Jacinda Ardern still believes modesty, kindness and compassion will win the day.”
(品位があり、徹底して人間的で、まだ44歳──ジャシンダ・アーダーンはいまも、「謙虚さ」「やさしさ」「思いやり」が世界を変えると信じている)
私たちはいま、どんなリーダーを望んでいるのでしょうか。
自国第一を掲げる人。敵を作ってでも突き進む人。
それとも、ともに涙することができる人。
アーダーンのリーダーシップは、これまで考えられてきた「リーダーに求められる強さ」とは違うものでした。
それは、彼女なりに“人間らしさ”を手放さないための道だったのだと思います。
涙を見せ、痛みに寄り添い、誠実に歩む人。
これからどんな時代になろうとも──いや、どんな時代になるかわからないからこそ──
リーダーとしてのアーダーンが示した姿を、私たちは忘れてはならないと思います。◾️
参考記事:
Jacinda Ardern
‘Empathy is a kind of strength’: Jacinda Ardern on kind leadership, public rage and life in Trump’s America
https://www.theguardian.com/world/ng-interactive/2025/may/31/jacinda-ardern-kind-leadership-public-rage-life-trump-america