——初の女性 “C” が直面する、AI時代の諜報と情報戦

「MI6 の長官が交代した」と聞いても、普通は映画のワンシーン以上の意味は持ちにくいかもしれません。

けれど今回の交代劇は、単なる人事ではなく、いまの時代の“諜報機関の仕事そのもの”が変わっていることを、よく表していました。

MI6 の長官は一般的に「C」と呼ばれ、MI6の職員で唯一、氏名が公表されます。

なぜ C か?

初代長官である海軍少将サー・マンスフィールド・カミング卿(Sir Mansfield George Smith-Cumming)は、単にイニシャルの「C」とだけ署名する習慣がありました。

この個人的な習慣が、後継の長官にも代々受け継がれ、組織内の伝統的な呼称として定着したとのこと。

さすが伝統好きなイギリスです。

 

2026年1月3日付の New Statesman に、MI6(SIS)の新長官(通称 “C”)に就いた Blaise Metreweli (ブレイズ・メトレウェリ)氏 について書かれた記事が出ていました。

18代目、そして初の女性トップ

 

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https://www.theguardian.com/uk-news/2025/jun/19/why-mi6-chief-is-c-and-uses-green-ink

 

前任の Richard Moore が比較的「発信するMI6」を体現していたのに対し、新長官は最初から「語り方」を変えてきています。

その変化の背後に、現代の諜報が抱える矛盾がくっきり映ります。

つまり、

「秘密であること」が任務の条件なのに、現代では「公的に説明し、支持を獲得すること」も任務になっている。

ということ。

 

彼女が昨年度末に行った最初のスピーチを基に、まさに今、諜報の世界で何が起きているのかを、紐解いてみたいと思います。

 

目次
1. “C” の交代に伴い、組織は一気に入れ替わる
2. 新長官は「テックのトップ」出身。だがHumint を捨てない
3. “前線はどこにでもある”——脅威認識はデジタル中心へ
4. それでも“China”が薄い。なぜ空白が生まれるのか
5. MI6 の古い弱点:「情報は多いが、次が見えない」
6. サイバーは「守り」から「攻め(攪乱)」へ
7. 監視技術が Humint を難しくする。主戦場は「二次地域」へ
8. 就任直後に直撃した「出自」攻撃。情報戦の現実
9. 2026年の MI6 長官が直面する最大の難題

 

1. “C” の交代に伴い、組織は一気に入れ替わる

MI6 では長官交代が起きると、他のポストも連鎖的に動くそうです。

長官の部屋は、前任者 Richard Moore が大使時代に集めた“オスマン趣味”の置物が片づき、「トルコのものが全部なくなった」。

同僚からは「やけに殺風景だ」と言われたそうですが、まずは静かなリセット。

 

長官は首相に報告する立場ですが、組織運営の裁量はとても大きい。

新年早々、ロンドン本部だけでなく、海外の重要拠点にも新しい顔が入っていく——記事はまず、そうした「静かな地殻変動」から始まると書いています。

ニュースの見出しになるのは事件や戦争でも、諜報の世界では人事や配置が、数年後の現実を変えてしまうことがある、ということも指摘されています。

それくらい大きな影響を与えるのがスパイたちの人事異動、なんでしょうね。

 

2. 新長官は「テックのトップ」出身。だがHumint を捨てない

Metreweli は直近まで、MI6 の Q Branch(科学技術部門)トップ でした。

つまり、サイバー、AI、デジタル脅威の最前線から上がってきた人です。

さらに、2021年からは MI5 (国内治安・諜報)へ長期間 “貸し出し” され、暗殺計画の抑止や、パンデミック時のワクチン窃取のような対外脅威にも関わった、と記事は書いています。

この経歴だけ見ると、「テック重視の C(長官)が来た」という話になりそうですが、彼女が最初に強調したのは意外にも、Humint(Human Intelligence=人的情報収集)の価値でした。

このタイプの情報が依然として価値を持つことを、内部に向けても外部に向けても、丁寧に示しています。

AIが分析を高度化させる一方で、「AIが個人の判断を置き換えるわけではない」というメッセージを打ち出し、元祖 Humint の MI6 という組織のアイデンティティを守ろうとしているようにも見えます。

 

3. “前線はどこにでもある”——脅威認識はデジタル中心へ

彼女の初期メッセージの結論は、象徴的な一文にまとまっています。

The front line is everywhere.(前線はどこにでもある)

かつて諜報の前線は、国境や大使館、あるいは特定都市の “現場” にあった。

しかし、SNSの偽情報、サイバー攻撃、デバイス侵入、サプライチェーン攪乱——こうしたものが常態化すると、「戦場」は物理空間から社会全体に広がった。

MI6長官がそう語るのは、もはや比喩というより運用上の現実ということなのだと思います。

 

4. それでも“China”が薄い。なぜ空白が生まれるのか

記事が鋭いのはここです。新長官の演説は、ロシア(モスクワ)には多く触れた一方で、中国への言及が薄かった

記事の筆者は、それが偶然ではないかもしれないと示唆しています。なぜなら、当時はスターマー首相の1月末の訪中を控えていたから。

政治日程が、諜報トップの言葉の選び方に影を落とす——それ自体は驚くことではありません。

 

しかし、だからこそ問題が残る。

英国にとって中国は「経済的に重要な相手」であると同時に、「サイバーや影響工作の脅威でもある」。

そのバランスをどう見ているのか。

語らないことで、むしろ空白が目立ってしまう。情報機関トップの“沈黙”は、ときにそれ自体がメッセージになってしまいます。

「話したこと」だけでなく「話さなかったこと」でも読まれてしまう。

 

5. MI6 の古い弱点:「情報は多いが、次が見えない」

記事は単なる人物ルポで終わらず、組織論を扱っています。

内部の不満として挙がるのは、MI6 が高品質の情報を大量に集めすぎる結果、政府中枢に“プロダクト”が溢れ、アクションポイントが曖昧になる という問題。

イラク戦争前の WMD(大量破壊兵器)が「過剰に盛られた」反省から、情報を慎重に出す文化が強まった。

すると今度は、「興味深い情報」は出せても、「それをもとに何をするべきか」が絡まりやすい。つまり、意思決定と行動の接続が弱くなる。

記事ではまさにこの領域が、新長官が取り組むべき課題の一つと指摘しています。

いま問われているのは、収集力や分析力そのものではなく、インテリジェンスを政策と行動に接続する設計力 ということなのかもしれません。

 

6. サイバーは「守り」から「攻め(攪乱)」へ

Metreweli 体制では、サイバー領域がさらに強まると記事は見立てます。

防衛だけではなく、敵対者の計画や供給網を能動的に妨害する(disrupt)方向へ。

そのために必要なのは、いわゆるこれまでの「スパイ像」とはまた違う人材です。

語学と社交だけでなく、インフラとコードの理解、データ運用の現場感覚。MI6 が「テック人材(特に女性)」を強く欲しているという言及は、組織の未来像をよく表しています。

当然この分野では、給与では民間に勝てないが、「国家安全保障」に関われる——その動機づけが今後どこまで効くのかも、時代の試金石となりそうです。

 

7. 監視技術が Humint を難しくする。主戦場は「二次地域」へ

もう一つリアルなのが、顔認証・歩容認証によって、従来の接触や勧誘が格段にリスク化している、という指摘です。

結果として、モスクワや北京のような本丸で派手に動くより、バルカンや「中国隣接国」のような「二次地域」でリクルートや育成が進む、とみられます。

映画のスパイ像は古くなる一方で、現実の諜報はより地味に、より周辺から、より長期戦になっていく。

ここにも、AI 時代の「見えにくい戦争」があります。

 

8. 就任直後に直撃した「出自」攻撃。情報戦の現実

記事後半はさらに重い話になります。

彼女の父方祖父が、戦時下ウクライナでナチ協力の情報提供者として残虐行為にも関与した、と報じられました。本人は祖父を知らず会ってもいない、と英国側は説明します。

記者が強調するのは、こうした「家系」を材料に相手を「ナチ」と結びつけるのが、プーチン政権側の偽情報・中傷の定番になっていること。つまりこれは家族史の暴露であると同時に、現代の情報戦の一部でもある。

そして、情報機関のトップが公の場に立つ時代には、こうした攻撃は「起こり得る」ではなく「起こる前提」で備えるべきだったのではないか、という示唆が残ります。

 

9. 2026年の MI6 長官が直面する最大の難題

この記事の結論は、かなり皮肉です。

Metreweli は「私は逐次コメントはしない」と言いました。しかし2026年の世界は、諜報トップに“黙っている自由”を与えないかもしれません。

秘密を守りつつ、公的支持も得なければならない。

偽情報に対抗しつつ、作戦は秘匿しなければならない。

テックを強化しつつ、Humint の誇りも守らねばならない。

情報を増やしつつ、行動につなげなければならない。

 

新長官が手にした象徴は、緑インクの万年筆です。

これは 代々 MI6 では長官だけがサインする際に使用するインクの色ですね。

けれど本当に問われるのは、「何を書かないか」ではなく、「この世界に対して何を書くのか」。

彼女の“沈黙の戦略”が、どこまで機能するのか。

そこに、AI時代の諜報の難しさが凝縮されている気がします。■ 

 

情報源:
Inside the first days of the new MI6 chief 

https://www.newstatesman.com/politics/uk-politics/2026/01/inside-the-first-days-of-the-new-mi6-chief

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