ネズミの嫁入り」という昔話をご存じでしょうか。

ある日、娘思いのネズミの両親は「この世で最も力ある存在に娘を嫁がせたい」と願い、旅に出る。最初に出会ったのは太陽。「あなたこそが最強でしょう」と言うと、太陽は答える。「いや、私は雲に遮られる。雲のほうが強いよ」。そこで次に雲を訪ねると、雲は「風に吹き飛ばされるから、風が最強」と言う。風に会えば「私は壁に遮られる」となり、壁に聞けば「ネズミに穴を開けられる」と返される。

巡り巡って、最も強いと思われたものは、最初から自分たちと同じネズミだった。

この話を思い出したのは、最近の世界情勢を見ていて、ふと「民主主義とは結局何なのか」と考えたときでした。
それはまるで、力の所在をぐるぐると巡る旅。
誰が一番強いのかが、決して明快にはならない旅路のように感じられました。

 

力のサイクルに生きる私たち

民主主義の世界では、首相や大統領が国のトップとして最も力を持っているように見えます。でも彼らの地位は選挙で交代できる。ならば「民」が最強なのでしょうか? 
そんなことはないですよね。。
一人の市民にできることは限られている。

議会、官僚、裁判所、メディア、世論、SNS……。
力は分散し、重なり合い、相互に監視し合っています。
まるで「誰もが少しだけ強く、でも誰もが完全には強くなれないような制度。

力は常に動き続けています。
固定されず、集中されず、誰かに預けられては、また返されていく。
この“所在なき力”の構造こそが、民主主義の本質の一つなのだと思います。

 

王室と政治家──誰のための「権威」なのか?

イギリス王室を描いたドラマ『ザ・クラウン』では、この曖昧さが繊細に描かれています。

王室は形式上、国の象徴であり首相よりも“上”の存在に見えます。けれども実際には、政治には口を出さず、政権側からは“権威の装飾”として利用されることすらあります。君臨すれども統治せず。
ドラマを観ると分かりますが、王室自体には国家の力はほとんどといってよいほど集約されず、実際とても脆い存在です。

これは実に逆説的な構図です。
「力があるように見える者」が、むしろ「力を持つ者の道具」として機能しているのです。
王室もまた、力の所在がぼやけた制度の中に組み込まれているわけです。

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The Crown from 映画.com

力を“曖昧にしておく”という知恵

世界には、誰がトップで何を決めるのかがはっきりとした体制もあります。明確な指導者、迅速な判断、揺るぎない命令系統。強さが視覚的に伝わる構造。

対して、民主主義では力は複雑に絡み合い、即断よりも合意、トップダウンよりも熟議が重視されます。制度としては不安定にも見えるのですが、これは意図された曖昧さでもあります。

しかし、歴史を振り返ると、民主主義は「力を曖昧にするために発明された制度」ではありませんでした。でも王の暴政、独裁の悲劇、権力の集中がもたらした惨劇を経て、「力の分散」こそが制度を持続させるための知恵であることに、多くの国が気づいていった経緯があります。

アメリカの建国思想では、三権分立や地方分権が徹底されました。これは一人の英雄を生み出さず、誰も暴走できない仕組みを構築するためだったとされます。

 

曖昧さに耐えるという知性

何か大きな事故や不祥事が起きたとき、民主主義の社会では、責任の所在が曖昧なことが多いですね。
首相か? 官僚か? それとも彼らを選んだ我々なのか?
「力がどこにあるのか」がはっきりしないというのは、実のところ、強いストレスを生みます。

誰かを即座に非難できれば、心は一時的に落ち着くでしょう。
けれど、この制度の中では、それができない。
だからこそ、私たちは立ち止まり、考え、慎重にならざるを得ないのです。

ネズミの嫁入りの話が語るように、最強の存在を求めて旅をしても、最後には自分たちの足元に戻ってくる。
民主主義もまた同じかもしれません。力を一人に集中させるのではなく、全員で少しずつ預かるという構造。

 

“誰かが強くなる”のではなく、“誰もが完全には強くなれない”ことを前提とした制度、といっても良いかもしれません。
そこにあるのは、力の分散だけでなく、責任の共有でもあります。

私たちはこの曖昧な制度の中で、生き、選び、揺れながらも、それでもなお泳ぎ続けているのです。
そして、どこかにあるはずの明快な答えを求めず、不確かな構造そのものを受け入れることが、実は、現代を生きる私たちにとっての最も成熟した“強さ”なのかもしれません。■

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