【読書】①ほめるのをやめよう ー リーダーシップの誤解 岸見一郎・著 からの続き
第5講 部下を勇気づけよう P. 29
アドラーが「自分に価値があると思える時にだけ、勇気を持てる」といっていることは先に見ました。この勇気は、仕事に取り組む勇気です。
一生懸命仕事に取り組もうとしない部下がいます。そのような部下を励ますつもりで「君には力があるのだから頑張れ」といえば、いよいよ頑張らなくなります。頑張ればいい結果を出せるという「可能性」の中に生きることを選ぶからです。そのような人は自分には価値(能力)がないことを仕事に取り組まない理由にします。
多くの場合、仕事の実質的な中身は対人関係ですが、人と関わると必ず何らかの摩擦が生じます。
自信がある人は人と関わることを恐れませんが、そうではい人は傷つくことを恐れ、対人関係を避けようとします。この場合、そうするために自分には価値がないと思うとします。
上司の仕事はそのような部下に、自分に価値があると思え、仕事に取り組む勇気を持てるように援助をすることです。
具体的には、部下に折に触れて「ありがとう」といいましょう。そのようにいわれ貢献感を持てた部下は自分に価値があると思え、仕事に取り組む勇気を持つことができるからです。
このように課題に立ち向かっていく勇気を持てる援助をすることを、アドラーは「勇気づけ」といっています。
ところが「ありがとう」とはいえないという人がいます。部下が仕事に意欲的に取り組まず、失敗ばかりしているというのです。
そのような部下に対しても「ありがとう」と声をかけるためには、部下に対する見方を根本的に変える必要があります。
上司は、部下に何か問題が起こればその問題に注目し、それを除去しようとします。そこで、行動を改めさせようと責します。しかし、問題というのはいわば闇のようなものですから、物のように取り除くことはできないのです。
それではどうすればいいのか。光を当てればいいのです。光を当てれば闇は消えます。勇気づけは光を当てることです。
これは部下の行動ではなくその存在に注目し、存在を承認するということです。
具体的には、出社してきた部下に「今日もありがとう」ということです。仕事に自信が持てず、「今日は出社したくない」と思っても、一大決心をして部下が出社してくればありがたいことです。
実際、出社して仕事をしてくれれば助かります。そのことを当たり前のことだとは思わず、きちんと言葉で伝えましょう。退社する時は「今日も一日ありがとう」というのです。
このような対応をされた部下は「今はまだまだ力が足りなけれど、頑張ろう」というのです。
部下の勇気づけを実践することは容易ではありません。どんなことに留意しなければいけないか、さらに考えてみましょう。
第6課 貢献についての思い違い P. 32
部下を勇気づける、具体的には「ありがとう」「助かった」という声をかけるのは、部下が貢献感を持つことで自分に価値があると思え、仕事に取り組む勇気を持てる援助をするためです。
しかし、本来の目的を理解しないで、部下を自分の思う通りに操作したい人は多いのです。
貢献についての二つの誤解を解かなければなりません。
一つは、貢献に対しては他者からの承認は必要ではないと言うことです。
ところが、「ありがとう」といわれるために働く人が出てきます。そのような人は、勇気づけのつもりであっても、「ありがとう」という言葉をほめ言葉だと受け取ってしまいます。
そのために、上司はそのような部下に絶えず言葉をかけなければならないことになります。上司は部下が自分の判断で仕事ができるようになるところまで指導しなければなりません。
それなのに、いつも上司の指示を仰ぐばかりか、承認されなければ仕事をしない部下では困るのです。どうすればいいでしょうか。
ある小学校の先生が廊下を歩いている時に、廊下に落ちているゴミを拾ってゴミ箱に捨てている生徒を見かけました。
これは「ありがとう」と声をかけていい場面ですが、その場では何も言わず、放課後、生徒たちを前にこういいました。
「今日、廊下を歩いていたら、あるお友だちが廊下に落ちているゴミをゴミ箱に捨てているのを見ました。思わず『ありがとう』といおうと思ったのですが、よく考えたら誰もいないところでもゴミを拾ってゴミ箱に入れてくれるのは、そのお友だちだけではないことに気づきました。だから今日は、誰もいないところでも、いつもゴミを拾ってゴミ箱に入れてくれている皆に『ありがとう』といいたいと思います。どうもありがとう」
このお話のポイントは、まずゴミを拾った子どもの名前をいわないということです。名前をいうと「ありがとう」といわれたいために、ゴミを拾うようになります。本来「ありがとう」といわれなくても、貢献感を持てなければならないのです。
次に、貢献は自己犠牲ではないということです。
人の役に立つことをしなければならないとわかっていても、それを犠牲的な行為と思っている限り、仕事は楽しくはありません。
部下が喜んで仕事に取り組むようになるためには上司がモデルにならなければなりません。上司が楽しそうに取り組んでいる様子を部下が見ることが大切なのです。
ここまでのところで、部下を叱らず、ほめず、勇気づけるためにどうすればいいか、またその際注意するべき点を見てきましたが、上司の部下への働きかけの仕方が適切であっても、対人関係がよくなければ、部下の力は伸びません。
次講は、上司と部下の関係がよいといえるために必要な条件として、尊敬と信頼について考えてみましょう。
第7講 部下を尊敬、信頼しよう P. 35
上司と部下の関係をよくするために、どんな条件を満たしていればよいのかを考えてみましょう。
ドイツの社会心理学者であるフロムは、人のありのままの姿を見て、その人が唯一無二の存在、他の誰かに代えることができない存在であることを知る能力が「尊敬」であるといっています(『愛するということ』)。
もしも部下が失敗を重ねたり、成績を伸ばせなかったりすれば、上司の指導方法に問題があるのですが、それだけではありません。部下が仕事に取り組む勇気を持てる援助ができていないということです。
それができるためには、「あるべき」部下ではなく、(現に)「ある」部下、ありのままの部下を認めるところから始めるしかありません。部下の行動ではなく、存在に注目し、存在を承認することを私は「存在承認」と呼んでいますが、これはフロムのいう意味で「尊敬」するということです。
さらに、フロムは、尊敬は相手がその人らしく成長発展していくように気遣うことであるといっています。入社してきた人を会社に適応させるのではなく、若い人が成長していく援助をするということです。
若い人は同じリクルートスーツに身を固め、自分を即戦力のある人材として売り込もうとするかもしれませんが、「唯一無二の存在、他の誰かに代えることができない存在」としての新人を採用しなければなりません。
以下のような意味で部下を尊敬してこそ初めて、会社も発展していくのです。若い人の感性、知性のほうが間違いなく優れています。若い人の才能を活かさない手はありません。
よい関係といえるもう一つの条件は、「信頼」です。
ここでいう信頼は無条件です。信じられる根拠がある時にだけ信じるのではなく、条件をつけないで信じる、あるいは、あえて信じる根拠がない時に信じるということです。
何を信頼するかといえば二つあります。
一つは、課題を自分で解決する力があるということです。部下が自分の課題をやり遂げられるとは信じられない上司は、部下のすることに手出し口出しをします。
実際のところ、失敗するかもしれませんが、できないと思われていることを知った部下は仕事に取り組む勇気をくじかれます。
まして、部下が失敗することを恐れて仕事を取り上げてはいけません。
このようなことをする上司は部下が失敗したときに責任を取りたくないのです。自己保身のことしか考えていないということです。
もう一つは、言動にはよい意図があると信じることです。進取の気性に富む若い人は上司に面と向かって異論を唱えることがありますが、上司を軽視しているからではなく、仕事や会社のことを真剣に考えているからだと、よい意図を信じなければなりません。
次講は、さらに、よい関係であるための条件である協力作業と目標の一致について考えます。
第8講 競争のない職場 P. 38
本講では、上司と部下がよい関係であるための条件として、協力作業と目標について考えてみます。
先に、叱ることとほめることの問題について考えました。 叱られたり、ほめられたりした部下は自分に価値があるとは思えなくなり、そうなると仕事に取り組む勇気を持てなくなります。
何より、叱ることとほめることの問題は、競争関係を生むということです。
部下に競争させることで生産性を向上させようとするのは、今や時代遅れです。競争に負けた人は、次は勝とうと頑張るかといえばそんなことはありません。ただ勇気をくじかれるだけです。
競争に勝った人も次は負けるかもしれないと、いつも戦々恐々としています。競争は人間の精神的な健康をもっとも損ねる要因なのです。
競争の弊害は個人だけではなく、組織全体にも及びます。競争すれば、勝つ人がいる一方で負ける人もいる。全体として見ればプラスマイナスゼロになります。
上司が部下に昇進などをほのめかしてほめようものなら、ほめられたい部下はたちまち上司の家来や子分になります。
ほめる上司はそのようにして自分の勢力を拡大しますが、部下のほうは会社のことを考えるというよりは、自分の利害だけを考えるようになります。
そこで、上司が不正を働くというようなことがあれば、部下は上司を守ろうとします。その不正が発覚した時、会社が社会的信用を失うのはいうまでもありません。
他方、上司がいつも叱っていると、叱られないことだけを考えるようになります。失敗しても上司に報告しないで隠すようになります。この場合も、隠蔽が発覚すれば会社の信用は失われます。
叱られることなくほめられたい部下は、会社のことは考えず、自分のことだけを考えているのです。このような部下も、部下をそのようにした上司も、会社にとって有害以外の何物でもありません。
上司は職場の中にある競争関係を根絶しなければなりません。そのためには、各人が対等な存在として協力し合い、全体としてプラスを目指さなければなりません。
具体的には、既に見たように貢献に注目し、協力に対して「ありがとう」ということです。
また、上司と部下も協力する関係になければなりません。上司は部下より知識も経験もありますが、一方的に指示するのではなく、時に部下に意見を求めてもいいということです。どうしていいかわからない時は率直に「わからない」といわなければなりません。
尊敬、信頼、協力作業がうまくいっていても、目標の一致ができていなければよい対人関係は築かれませんし、たちまち仕事は行き詰ります。職場全体の、あるいは部署の達成しようとする目標が明確であればこそ、力を尽くして頑張れます。
しかし、この目標は仕事の目標のことだけではありません。人は働くためにだけ生きているのではないからです。
次講は、働くことも含めて、生きることの目標が何かを明らかにしてみます。
第9講 幸福であるために働く P. 41
いつか五月の連休を待たずに会社を辞めた若い人に、なぜ辞めたのかと聞くと、先輩や上司が少しも幸せそうには見えなかったからという答えが返ってきました。
先輩や上司が幸福に見えないからといって、自分も幸福になれないわけではないので、その会社で働きたくないことの口実ににしたといえないわけではありません。
若い部下から「人は何のために働くのか」と問われた時に答えることができるでしょうか。
職場は仕事をするところなので、そのような問いは、仕事には何の関係もないことだと突っぱねることはできます。
たしかに、簡単に答えられるような問題ではありませんが、その問いが仕事に無関係と言い切れるかは自明ではありませんし、たずねたのに真剣に取り合ってもらえなければ、部下は答えをはぐらかされたと思うかもしれません。
その問いに対して「実は私もわからないのだ」と答えることも可能です。共に考えるという姿勢を見せることが大切なのです。
いつか、企業研修で講演をしたことがありました。それまであまり熱心に私の話を聞いているようには見えなかった人たちが、突然身を乗り出して聞き始めました。「人は働くために生きているのではなく、生きるために働いているのだ」という話をした時でした。
働かなければ生きていくことができないというのは本当です。しかし、働くために生きているのではないことも本当です。自分から仕事を除いたら何も残らないというような人がいれば、その人の働き方には改善の余地があります。
働くことも生きることなのですから、「何のために働くのか」という問いへの答えは、「何のために生きるのか」という問いへの答えと同じでなければなりません。端的にいえば、それは幸福であるためです。
ところが、働いているのに幸福であると感じられないとすれば、働くことの目標を幸福ではなく別のことに求めているからです。
三木清は「幸福が存在に関わるのに反して、成功は家庭に関わっている」といっています(『人生論ノート』)。
幸福であるためには、何かを達成しなくてもいいのであり、今ここで生きていることがそのまま幸福で〈ある〉ということです。
他方、成功は過程であるというのは、何かの目標を達成しなければならないということです。
仕事は目標を立て、それを達成することであると考えれば、仕事の目標は成功であると考えられますが、働くことも幸福を目標にしなければなりません。
個々の仕事には達成するべき目標がありますが、働くことそれ自体は幸福を目標とします。なぜ働くかというと幸福であるためです。
そうだとすれば、何も達成していなくても、働いている今この瞬間に幸福であると感じられていなければならないのです。
次講は、どんな働き方をすれば幸福であると感じられるかを考えてみます。
第10講 貢献度のある働き方 P. 44
前講で、働くことも生きることなので、「何のために働くのか」という問いへの答えは、「何のために生きるのか」という問いへの答えと同じでなければならないことを見ました。
古代のギリシアやローマの哲学者は、「人は誰もが幸福であることを望む」といっています。幸福は望まなければ望まないでいられるようなものではなく、人間が生まれながらに持っている願望だということです。議論できるのはどうすれば人は幸福でいられるかということだけです。
働くことも幸福であるためでなければならないはずですが、もしも今、「幸福である」と感じられていないとしたら、それは働き方に改善の余地があるからです。
どんな働き方であれば幸福であると感じられるか。
端的にいえば、「他者に貢献している」と感じられていれば幸福であると感じることができます。
アドラーが次のようにいっています。
「誰かが靴を作る時、自分を他者にとって有用なものにしている。公共に役立っているという感覚を得ることができ、そう感じられる時にだけ劣等感を緩和できる」(『生きる意味を求めて』)
靴を作る人は、自分が作った靴を買った人にとって「自分を有用なものにしている」のであり、靴を作ることで「公共に役立っているという感覚」を持つことができます。これが「貢献感」です。
貢献感がある時に「劣等感を緩和できる」ということについては説明が必要です。
アドラーは次のようにもいっています。「私に価値があると思えるのは、私の行動が共同体にとって有益である時だけである」(Adler Speaks)。
この「価値があると思える」ことの反対が、「自分には価値がない」あるいは「価値が劣っていると感じること」、つまり「劣等感」です。
靴を作る人は、「靴を作る」という行動によって他者にとって有益であることができ、自分が「公共に役立っているという感覚」「貢献感」を持てるので、「劣等感を緩和」でき、自分に価値があると思えるのです。
アドラーは、ここで靴作りを例にして述べている「労働の分業」は、「人間の幸福の主たる支え」であるといい、分業ができるようになったのは、人が協力することを学んだからだといっています(『人生の意味の心理学』)
協力し、分業するという人とのつながりの中でこそ人は幸福になれるということです。
対人関係の中では何らかの摩擦が起こることを避けることはできません。それでも、「仕事を通じて他者と結びついている」「自分も自分の仕事によって他者に貢献できている」と感じることで、生きる喜びを味わい、幸福であると思えるのです。
このように考えた時、リーダーは何ができるのかといえば、貢献感をもってい仕事をするモデルになることです。
第11講 リーダーの在り方について P. 47
どんな仕事も、最初は上司が部下に仕事の内容や手順を教えなければなりません。指導が適切であれば、上司がいちいち教えなくても力をつけていくはずであり、そうなると、上司の仕事はそれほど多くはなくなるはずです。
もしも部下がいつも失敗し、成績が上がらないのなら、それは上司の指導に問題があるからで、部下の能力が足りないからではありません。
また、部下がいつも上司の指示を仰ぎ、上司がいつも指示しなければならないようであれば、そのことも上司の指導に問題があるということです。
『イソップ寓話集』にこんな話があります。
自分たちに支配者がいないことを苦にした蛙たちが、ゼウスに王様を授けてくださいと頼みました。
そこで、ゼウスは池に丸太を投げ込みました。蛙たちは、初めこそドブンという水音に驚いて池の深みに身を隠していましたが、丸太が動かずそのうち水面に上がってくると、丸太を馬鹿にし、丸太の上にすわり込んだりするようになりました。
こんな王では物足りないと、蛙たちは再びゼウスを訪ね、王様を取り替えてほしいと頼みました。
すると、ゼウスは大いに腹を立て、今度は王として水蛇を遣わしました。蛙たちは水蛇に捕まり、次々に食われていきました。
上司にいつも指示を仰ぐ部下は蛙たちと同様、何もしないリーダーを好みません。自分で何をするかを決めなければならないとすれば、その決断の責任を自分で取らなければならないからです。
なぜ部下がこのようになるかといえば、上司が部下を叱るからです。自分の考えで動いて上司から叱られるくらいなら、自分では何も考えないで上司からいわれた通りにしようと考えるのです。
時には失敗しても、自分の判断で動ける部下を育てることが上司の仕事です。その意味では、リーダーは「丸太」、つまり、見えないリーダー、存在感のないリーダーでなければならないということです。そうでなければ、部下は上司に依存し、自主的に仕事をしなくなるでしょう。
真っ当な上司であれば、ただ従順なだけの部下は自分の責任を免れようとしていると見抜けるはずです。そのような部下は組織のことではなく、自分のことしか考えていないのです。
他方、上司のほうも常に従順な部下を好ましいと思っているのであれば、組織のことではなく、自分にしか関心がなく、部下を食い物にし、部下を育てようとは思っていないことになります。
上司がいったことでも間違っていたらそれを正せるような部下を育てるためには、自由に発言できる雰囲気を作らなければならず、そのためにはリーダーの存在を強く意識させてはいけません。
自分が組織の一員であり、そこに所属していると思えることは人間の基本的な欲求ですが、そのことと共同体の中心にいることとは異なります。まずはリーダーが自分の組織の中心にいたいと思うのをやめる必要があります。
次講はリーダーシップについてこれまでのまとめをします。
第12講 リーダーができること、できないこと P. 50
リーダーは役割の名前でしかなく、上司と部下は職責が違うだけで対等であるということ、さらに、このことを前提にリーダーにカリスマはいらないということを見てきました。
ところが、上司や上役という言葉は上下関係が前提であり、リーダーと言葉を変えてみても、リーダーはリード、つまり、先に立って導くものだと理解している人が、「上司やリーダーは、部下よりも上か先にいる」というイメージを拭うことは難しいようです。
また、「対等」という言葉の意味は理解していても、部下を対象と見ていない言動をしている人が多いように思います。部下をりつけるというようなことです。
リーダーにカリスマはいらないということについてはどうでしょうか。カリスマでなくても強力なリーダーは必要だと考える人がいます。リーダーのあり方として私が理想と考えているのは、次の通りです。
中国の古伝説上の王である堯(ぎょう)は、世の中が本当に治まっているか、自分が天子であることに人々が満足しているかを知るために変装して家を出ていくと、老いた農民が楽し気にこう歌っているのを耳にしました。
日の出と共に働き、日の入りと共に休む。井戸を掘って水を飲み、田を耕して食べている。最後に「帝力何有於我哉(帝の力どうして私に関係があるのか)」と歌いました。もちろん、関係がないはずはなく、堯の善政があればこそだったのですが、堯の治世を人々が意識していないことが平和に治まっていることの証なのです。
最初に、上司と部下は職責が違う「だけ」と書きましたが、この違いはかなり大きなものです。
喩えてみれば、リーダーは、オーケストラにおける指揮者のような存在です。
音楽のことをよく知らない人がオーケストラの演奏を見れば、指揮者は何をしているのだろうと思うかもしれませんが、指揮者がいなければ音楽は成立しないのです。指揮者は何をしているのか。
曲を全部覚えている指揮者もいますが、通常、総譜(スコア)を見て指揮をします。
これにはすべてのパートの楽譜が載っています。それぞれの演奏者は自分の譜面だけを見て演奏すればいいのですが、指揮者はすべてのパートがどこでどんな演奏をするかを把握していなければなりません。このような指揮者がいればこそ、演奏者は一心になって演奏することができるのです。
大事な点は、指揮者は自分で音を出すことはできないということです。会社の上司も基本的には指揮者と同じで、自分で動くことはできません。
指揮者が変わると演奏が違ったものになるのは本当ですが、楽員が「自由に演奏ができる」と思える指揮者が私はいいと思っています。
演奏後に送られる拍手はオーケストラ全体へのもので、指揮者だけに送られるのではありませんが、自分への拍手だと思う指揮者がいるとすれば、それは違うでしょう。皆で成し遂げた仕事なのに上司が自分の手柄にするのと同じくらいおかしいことです。