ノルウェーの作家カール・オーヴェ・クナウスゴールが、自らの少年期からの歩みを書いた自伝的長編『わが闘争』を段階的に執筆中のころ、英国の作家、ゼイディー・スミス が、「とにかく続きが早く読みたい、彼の文章には Drug のような作用がある」といったことを書いていた。

 

町田康 さんの『浄土』を読んで、最近同じような経験をした。

 

この本にはいくつかの物語が収録されているが、いずれも、不合理感、不条理感が満載で、不可解なこと極まりない、、、の連続なのだが、その自由な書きぶり、読者を置き去りにしていそうでしっかりとついてこさせる間の取り方など、いずれも通常読書を楽しむときに使う部分とは違う脳のパーツが赤くチカチカ点滅するような刺激を覚えた。

 

文章を読むこと自体に楽しみがあり、ストーリが―支離滅裂でも、物語がどんな終わり方をしても、そんなものは全く関係なく思えてくる。

まるでプロットやあらすじなどを追うことには、意味がない、と言わんばかりに。

 

一文一文が、乾いたスポンジに水が沁み込むように、脳に入ってくる。

 

たとえば『あぱぱ踊り』は、こう始まる。

  秋であった。夏であった。どっちや? 秋であった。風が涼しいなあ。首筋が寒いなあ。多くの人とがたくさんの人が、どっちや? 多くの人がリストラの恐怖に怯えつつ往来を寂しそうに歩いていた。往来? 場末のような往来であった。旺文社文庫で夏目漱石の書籍を読んで教養を高めていたような男や髪の毛を緑に染め、五十過ぎたら和服で生活したいと嘯いて新人歌手に説教をしているディレクターや蜜柑を持ったおばんが通り過ぎていく汚い場末の往来。

  を南に曲がった裏は倉庫街であった。

 

 

どうだろうか。

冒頭だけでも、引き込まれていく。

 

この話はさらに異常ともいえるようなふつうあり得ないような事態に、主人公はどんどん巻き込まれていく。

しかし、ストーリーよりも、そのストーリーを表現する文章にこそ、〇薬のような耽溺性の強い刺激がある。

 

ストーリーやプロットではなく、文章の表現、そしてそこから生まれる不条理な世界を味わう小説を久しぶりに読んだ。

完堪能。

 

自分が知らないだけで、世の中にはまだまだこんなにとてつもない作品がたくさんあるのだ。

 

冒頭のゼイディの気持ちがよく分かった。

 

 

 

続く: 【読書】町田康に学ぶ文章術 – 毎日書いて、自意識を取り払え!

【読書】町田康に学ぶ文章術 – 毎日書いて、自意識を取り払え!