今年もよろしくお願いします。

この年末年始はまた本もいろいろと読むことができて幸せな時間でした。

文章の書き方みたいなジャンルはたくさん読んできましたが、今回もまた一冊、すばらしい作品を読みました。

町田康氏によるこちらの作品です。

 

『私の文学史 なぜ俺はこんな人間になったのか?』

 

これがまた大変におもしろかった。

町田さんの『浄土』を読んで、文体に衝撃を受けたことは以前も書いた通り

 

今回、その刺激溢れる特異な文体を作るに至った読書遍歴や、自らの文章に課しているポイントを包み隠さず披露してくれていて、とてもありがたい。

ものすごい勉強になる。

 

 

たとえば、P. 101 「文体チェックに三つのポイント」にはこのような記述がある。

 

最後に、自分が文体でチェックしているポイントというのは、わりと簡単なことですけど、三つありまして。一つは、自動的な、オートマチックな言葉遣いになっていないか。とはいえども、しょっちゅう聞いたりしている言葉は自然にパッとつかったりしてしまいますから、たとえば、マスコミとかで大量に流布している言い回しとか、そんなものを自分がオートマチックに使っていないか。これは、玄人の小説なんかを読んでいても、「あ、ちょっとここは油断してオートマチックな言葉を使っているね」とわかります。それは徹底的に排除する

ということは、イコール二番目ですけども、それは、ひたすら新奇な言葉を求めるんじゃなくて、古さもあって、自分がその言葉をどこまで本当に理解して浸かっているか。オートマチックに使っているということは、耳から入ったその言葉を表面上通過して、そのまま加工せずに出しているということですから、文章の自動の点検をせずに、なんなのかわからずに言葉を自動的に使っているというということです。言葉には背景、バックグラウンドがあって、その言葉一つには、歴史上のことも含めて、多くの人やモノやコト、そういうものが関わっている。その経緯を知らないで簡単に言葉を使うと、それはまるで、あまりよく知らない外国語で文章を書いているようになってしまう。自分が言語を支配するんじゃなくて、その言葉の景色の一端に繋がること、自分こそがむしろ、その言葉によって照らされている景色の一つであるということを意識すれば、オートマチックな言葉遣いを避けることができる。

それから三番目は、オリジナリティに拘泥しないことです。自分の色を出してやろうとか、自分の文章を書いてやろう、俺の文体をつくってやろうということじゃなくて、誰かに憑依されることを恐れない。何かの文章を読んだら感激して移ったりすることがありますけど、自分が 書いている小説は、それによって浸食されて違うものになってしまうし、作品世界も壊れてしまうから、憑依されることを避けるために、創作中は読みませんみたいなことはせず、憑依を恐れない。それから、真似を恐れない。オリジナルなどという傲慢なことを考えない。

以上の三つが、僕が具体的に実践を心がけているものということで、小説家として、文体についての話はここまでにしたいと思います。

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実に明快。
これは町田作品の文体を理解するためだけではなく、常日頃から文章を書くときにも意識したい点だと思う。

 

さらに、P. 169 には、「絶対におもしろい文章を書けるコツ」という小見出しがある。

一般人、無名人、特殊人、有名人と人間には四種類あるが、だれでもこれをやったら絶対におもしろい文章を書くことができるというコツがあるという。

曰く、「本当のことを書くこと」。

 

本当の気持ちを、そのときどきの本当の気持ちを書くことなんです。

「そんなん、普通ちゃうんか」と言うかもしれませんけど、実はね、これをやっている人はほとんどいないんですよ。文章がうまい人はいます。文章のうまさで読ませる人はたくさんいます。でも、そのときどきの本当の気持ちとか、本当に思ったこととか、本当に考えたことを、自分が本当に - というのは、本当に頭の中で浮かんでいたこと、これをそのまま書いている人、加工はします、文章の技術は使います、ただ、その気持ちをダイレクトに書いている人っていうのは、ほとんどいないんですよ。でも、たまにいるんですね、たまにいると、そういう人の書いた文章を読むと、メチャメチャおもろいんです。西村賢太の小説が、なぜ、おもろいか。ホンマに書いているからです、思うたことを。これがおもしろいんです。

おもしろくない、不愉快だと思う人もいるかもしれませんけど、そこは技術なんいうのは簡単に勉強できて、数やっていれば誰でもうまくなりますから。大事なのは、やっぱり、本当の気持ちを書くことなんですね。これをやると、だれでもおもしろい文章を書ける。人間の考えていることなんて、だいたい変なんで、普通のことって、あんまり考えていない。では、「その普通ってなんやねん」といったら、その普通ということに阻まれて、本当に変えていることを書けないわけです。人間が本当のこと、変なことを考えていて出せない理由は二つあります。

一つは、さっき言った、文章の自意識。なんか、カッコええことを書かなあかんからとか、いざ文章を書くとなると、ええ感じにせなあかんという、そのことに阻まれてかけないんです。それともう一つ、なんの自意識に阻まれているかというと、普通という意識です。これが普通で、俺の考えていることを変なことやと、「こんなことを言ったら、おれは社会的に生きていけない。抹殺される」と思ってしまうこと。そこまで行かなくても、「カッコ悪いかもしれない」とか「友達を失うかもしれない」とか「なんか、批判されるかもしれない」とか、「これを言ってしまったら、俺は終わる」という恐怖。それに阻まれて、せっかく、本当に考えているおもしろい、変なことが書けないんです。

本当のことを書くと、エッセイが必ずおもしろくなるんです。でも、自分の文章的な自意識と、普通という、社会とか世間の自意識みたいなものを勝手に意識して、勝手に忖度して、そこにたどり着けない。自分の本当にたどり着けないんです。だから、自分の本当を書くためには、そこにたどり着く必要があるんです。

 

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P. 177 以降には、「本当」にたどり着くためにすべきことをさらに説明してくれている。

 

やっぱり自意識は強烈ですから、社会の自意識、世間の自意識というのは特に強烈ですから。そこに本当にたどり着くためにはどうしたらいいのか。実は、そこに自分を運んでいってくれるものがあるんです。

話が循環しますが、自意識を取り払った文章、文章そのもの - これを丸谷才一なら「呪術的」と言うかもしれませんが、呪術的な文章の力によって、その文章という船に乗れば、自分が考えている変なことに突き当たる水路、海流に乗れるかもしれない。こういうことがあるわけです。

そのためには、文章を書くためには、文章を書くときのカッコつけの自意識を外すことをしなければならない。まず、一度外すと文章の自意識がなくなります。そうすると、文章を書くことが楽しくなって、スルスルと文章の推進力によって、言葉を書き進めていくことができます。その、言葉を書き進めていく推進力に従ってどんどん進んでいくと、自分が本当に考えている変なことにたどり着くかもしれない。その、自分が本当に考えている変なことが、実は、何を必要とするかというと、それを気持ちよく提出するためには、自分の文章の自意識を取り払わなければならない。そして、また最初のところに戻るわけですが、もう一度、そこにたどり着いたときには、今度はさらに、もう一層下の自意識 - 自意識も一度取り外したら終わりじゃないですから、さらにもっと深く、もっと大きく自意識が取り外されてますから、もっと広がっていく。このことをどんどん繰り返していくことによって、おもしろい文章を書くことの秘儀に、呪術に到達できるわけです。

でもこれは、一度やったから永久にできるようになるということじゃなくて、また自意識が戻ってきたりとか、世間の良識、普通という呪縛、「俺、普通じゃないかも」という恐怖みたいなものが常に積もり続けていますから、これを続けるためには、日々文章を書くこと、一日も休まずに書き続けるということが必要です。これをやることによって、自意識が取り払われ、自分の変さに到達することができる。

 

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毎日書く、一日も休まずに。

自らの内側にブレーキをかける自意識を取り払うために。

 

新年の目標に加えよう。

 

すばらしい一冊でした。