先日、オックスフォード大学の哲学者(数学者・神学者)ジョン・レノックスが出演したポッドキャストを聴きました。
とても考えさせられる内容でした。

テーマは、
聖書は、AIについて何を語っているのか」。
(ポッドキャスト番組 How I Write より)

 

我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう

冒頭から「人間は神の姿に似せて造られた」という創世記の一節が引用され、議論はテクノロジーを超えて、人間存在の意味そのものにまで踏み込んでいました。

特に印象に残ったのは、「人類はいま、AIを通して神をつくろうとしているのではないか」という問いかけです。
聖書の物語では、「全知全能」の神が人を創造しました。現代の私たちは、膨大な知識を詰め込み、自己学習する人工知能を築いています。

それは、逆に人が神を模倣しようとしている営みにも見えます。

まるで天に届く塔を築こうとした『バベルの塔の物語』のようです。
伝承では、その建設を率いたのはニムロドという王だったとされていますが、結末はよく知られている通り、神の逆鱗に触れて塔は崩され、人々は世界中に散らされました。

重要なのは、「人類が神に届こうと背伸びした」という構図そのものが、今を生きる私たちの世界で、AIという新しいかたちをとって現在進行形で繰り返されている、ということです。

画像
ニムロド 

「全知」と「全能」のずれ

AIの進歩を見ていると、人類が「全知」に近づいているように感じます。
膨大なデータを処理し、未来を予測し、数秒で世界中の知識を集約できるようになりました。

しかし「全能」には一向に届きません。

知識をどう使うか、力をどんな方向へ向けるか――その問いに対して人類はいまだ無力です。
むしろ知識が増えるほど、意味を見失い、判断を誤る危うさが増しているようにも見えます。

 

左脳だけで発展してきた人類

上記番組の中でレノックスが語っていた「右脳と左脳」の比喩は、とても示唆的でした。

人間の左脳は仕組みを分析し、科学や技術を発展させます。右脳は意味や価値を直感的に理解します。
近代以降の人類は、ほとんど左脳ばかりを使ってきました。

物理法則を発見し、重力を計算し、エンジンを発明しました。宇宙を観測し、DNAを読み解きました。

しかしレノックスはいいます。
「それが人間にとって何を意味するのか」という右脳的な問いには、我々はほとんど答えてこなかったと。

彼は例として、自動車を挙げています。
人間は科学的に自動車の仕組みを説明することはできますが、「なぜヘンリー・フォードがそれを作ろうとしたのか」という問いには別の説明が必要であると。

科学は「仕組み」を解き明かしますが、「意味」を与えることはできません。

これは、AIも同じです。

たしかに、仕組みや性能を改良することはできても、それが人類にとってどんな意味を持つのかという問いは、いろいろな分野で置き去りにされたままな気がします。

 

善悪の知識の木が示すもの

ここで思い出すのが、創世記に登場する「善悪の知識の木」です。
最初の人間、アダムとエバは神に「食べてはならない」と命じられていたにもかかわらず、その実を食べました。
その結果、二人は楽園を追放されました。

つまり、問題は「知識」そのものではない、とレノックスはいいます。
知識は楽園に最初から存在していたのだと。
というのも、神がアダムに与えた最初の仕事は、楽園内に存在するいろいろな動物に名前を与えることでした。
――つまり世界を分類し、秩序を与える――という仕事です。
もし知識が悪なら、その役割は与えられなかったでしょう。

では何が問題だったのか。

それは、善悪の基準を自らの手に握ろうとしたことだったのではないでしょうか。
神に委ねられるはずの価値判断を、自分自身が決めることにした瞬間に、人類は「神の位置を奪おうとした」ともいえます。

 

ハラリの視点:人類は神になろうとしている

このテーマについては、歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリも『ホモ・デウス』で鋭く指摘しています。

 

ホモ・デウス 上 :ユヴァル・ノア・ハラリ,柴田 裕之|河出書房新社
 
彼によれば、人類はテクノロジーの力で「死を克服し、神のような存在になろうとしている」。

AIはその最前線にあり、私たちが意思決定や価値判断をアルゴリズムに委ねることは、まさに「神の座を譲り渡す」行為だと警告しています。

レノックスが聖書の言葉で「人が神を模倣しようとしている」と語ったことと、ハラリの「人類は神になろうとしている」という指摘は、立場は異なっても奇妙に響き合っています。
つまり、宗教と歴史という異なる視点から、同じ危機が指摘されているといっていいと思います。

 

AIという新しい「木」

こうして考えると、AIは人類にとって新しい「善悪の知識の木」のようにも映ります。
聖書の物語では、木の存在そのものが悪だったわけではありません。
問題は、神の言葉を退け、自ら善悪を決めようとした人間の態度にありました。

同じように、AIの知識や計算力そのものは罪ではありません。

医療や教育、環境問題の解決などに大きく貢献できる可能性があります。
しかし同時に、その知識をどう使うのか、どんな基準で意味づけるのかが問われているのだと思います。

AIを単に「神のように」崇めるなら、それは偶像崇拝に近づきます。

けれどもAIを「人間の使命を果たすための道具」として位置づけるなら、そこには希望が開けるのかもしれません。

 

最後に

レノックスも指摘するところですが、AIは私たちに新しい知識をもたらしますが、それが「祝福」になるのか「呪い」になるのかは、私たちの選択次第です。

聖書の物語を通して見えてくるのは、知識を持つこと自体が問題ではないということ。問題は、それをどう用い、どんな意味を与えるかです。

アダムが動物に名前を与えたように、私たちはAIにどんな名前を与え、どんな意味を託すのでしょうか。

バベルの塔を率いたとされるニムロド王のその後は、聖書に明確には描かれていません。

残されたのは、神に届こうとした人類の野望が挫折に終わったという記憶だけです。
知識を積み上げても意味を見失えば、結局は崩れ去るというある種の象徴のようにも思えます。

私たちは、AIという新しい「塔」をどう築くのでしょうか。

ニムロドのように「神の反逆者」のレッテルを貼られ、忘れ去られる存在になるのか。

それとも灯台のように未来に意味を与える存在になれるのか。

答えは、私たち自身に委ねられている気がしています。■

参考元:Oxford Professor: AI Is Humanity’s Attempt to Make God