最近、ドラマ『キンドレッド 時間を超えた絆』をDisney+で見た。
奴隷制度真っ盛りの米国南部にタイムスリップしてしまう作家志望の若い女性が主人公の話だ。
時代背景も設定も大胆でとてもおもしろく見た。
おもしろいという表現は適切ではないが、ここではストーリーやプロットに関してという限定的な意味でそう書く。
原作は、故・オクティヴィア・E・バトラーによるSF小説の金字塔とされる。
この奴隷制というのは私が関心を持つ文学テーマの一つで、これまでもいろいろな作品を見たり読んだりしてきた。
奴隷制度というおよそ人間に考えられる最悪な逆境において示される人間の底力やリーダーシップ、登場人物の優しさや、時に報われない努力といったものに惹かれるのだと思う。
たとえば、『それでも世は明ける』『ジャンゴ 繋がれざる者』、最近では『アンテベラム』などなど。
名作ぞろいだ。
一方でこれらは論争を呼び起こす作品群でもある。
スパイク・リー監督は『ジャンゴ』を見るつもりがあるかと聞かれた際にこのように答えている。(NBC News)
「私はそれについて話すことはできません、なぜなら私はそれを見るつもりはありません。
私が言いたいのは、この作品は私の祖先に対する冒とくだということだけです。」
「アメリカの奴隷制度はスパゲッティウエスタンではありませんでした。それはホロコーストでした。
私の祖先は奴隷です。アフリカから盗まれたのです。私は彼ら祖先の思いを尊重したいのです」
本日の一冊はこちら、『カースト』イザベル・ウィルカーソン 著。
日経新聞に優れた書評が掲載されていたのをきっかけに手を伸ばした。
本書のメッセージはクリアで分かりやすい。
西山教授は書評でこのようにまとめている。
「著者はカーストは黒人だけでなく、社会全体に害悪をもたらすと主張する。
黒人への施しを嫌うがゆえに福祉制度が拡充されず、結果的に貧困な白人の生活が保障されていないことはその一例だ。
また著者は、人種とは科学的根拠のないフィクションに過(す)ぎないのだから、全ての人を自分と同じ人間として尊重すればよいという。
そうすれば世界がより平和で豊かになるのだという。」
本来、カースト制度などというものは人が作ったフィクションに過ぎない。
こんな当たり前のことさえ言われないと気づけないほど、ある種自然にこの歪な社会システムを受け入れてきてしまった。
そしてその当たり前の上に我々の社会は、経済は、世界は成り立ってきた。
抜き書きしておく。
P. 19
カースト制度は人為的に形成されたものであり、出自や変えられないことの多い特質に基づいて、ある集団の推定上の優位を他の集団の当然の劣位に対して設定する、固定され埋め込まれた人間の価値ランキングである。その特質は、それ自体は意味を帯びていないが、支配カースト背の祖先が考案した、自分たちに好都合なヒエラルキーにおいては生死を分けるほどの意味を与えられる。カースト制度は、厳格でしばしば恣意的な区切りを用いて集団を等級ごとに隔て、各集団は互いから区別され、割り当てられた立場にいる。
人類の歴史を通して三つのカースト制度が特に注目されてきた。痛ましいほど急速に発達して背筋も凍るような悲劇を起こし、現在は公式に抑えられたナチスドイツのカースト制度。数千年前からあり、いつまでも残るインドのカースト制度。そして常に形を変え、口にされず、人種に基づいた米国のカーストのピラミッド構造。三つとも、最下位とされる周辺にいる人びとの人間性を奪うことを正当化し、カーストの実施規範を道理にかなっているように見せるために、下等と見なされる人に烙印を押すことに頼っている。カースト制度が存続するのは、多くの場合それが神の意志であるとして正当化されるためである。晴天や自然の法則とされるものに起源を持つ解釈されることから、文化のあらゆる面で実施され、世代を通じて受け継がれる。
P. 46
アメリカにおいて奴隷制とは単に黒人を見舞った不幸な出来事ではなかった。奴隷制はアメリカによる革新であり、支配カーストに属するエリートのためにかれらによって作り出され、支配カーストのなかでも比較的貧しく、良心よりもカースト制度のほうについていった者によって実施されたアメリカの制度だった。法や慣習が「奴隷は主人の意志だけでなく、ほかのすべての白人の意思に従わなければならない」と定めていたため、支配カーストに属する者は誰でも支配者となった。奴隷制は「それ以外は完璧な布」にあるたった一本のほつれた糸ではなかった、と社会学者のスティーヴン・スティーンバーグは書いた。「奴隷制は、布に仕上がることになる生地だったと言うほうが正しいだろう」
一六一九年から一八六五年まで続いたアメリカの奴隷制は、古代ギリシアの奴隷制や現代の違法な性奴隷とは違った。今日の忌まわしい奴隷制が違法であることは疑いなく、今日こそ逃げ出す犠牲者は、その人の自由を認め、その人を奴隷にした者を罰するために動く世界に逃げる。対してアメリカの奴隷制は合法で、国や施行者のネットワークにより支持されていた。そこからなんとか逃げ出した人は誰でも、その人の自由を認めないだけではなく、その人を奴隷にしたの者の元に戻し、報復として言葉にできないほどひどい仕打ちを受けるようにする世界に逃げた。アメリカの奴隷制では、罰せられるのは人を奴隷にしたものではなく、犠牲者のほうで、人を奴隷にした者がほかの奴隷への教訓として考えついた残虐行為をなんでも受けた。
植民地住人が作り出したのは「世界のどこにも存在しなかった極端な形式の奴隷制」だった、と歴史家のアリエラ・J・グロスは書いた。「歴史上初めて、人間の一つの部類が「人類」から除外され、何世代も永久に奴隷であり続ける別の回集団に入れられた」
P. 49
最初の二四六年間に現在のアメリカ合衆国であるここの地に暮らしたアフリカ系アメリカ人の大半は、かれらの身体や生命そのものに対して絶対的な権力を持っていた者がもたらす恐怖のもとで暮らし、かれらを支配する者たちのほうは、次々と繰り出す残虐行為についてなんの制裁も受けなかった。
P. 50
「アメリカのニグロの人生の悲惨さについては」とジェイムズ・ボールドウィンは書いた。「言い表す言葉がこれまでほとんどなかった」
このような状態が米国でいちばん長かった。奴隷制が米国でどれだけ長く続いたかは、米国は二〇二二に初めて、この国が独立国家であった年数が、奴隷制が続いた年数と並ぶことを知るだけでも推し測ることができる。現在生きている大人は誰も、アフリカ系アメリカ人が集団として自由であった年数が、奴隷であった年数に並ぶ年には生きていないだろう。それは二一一一年までに来ない。
恐ろしい事実の列挙に圧倒される。
本書では黒人の人たちがどのような残酷な仕打ちを受けてきたのかについて詳述されている。
抜き書きしないが、正直気分が悪くなるほどの描写が続く。
肌の色が異なるということだけで、他方を劣等と定義し、暴虐の限りを尽くして搾取する。
経済を回す労働力として、ある特定の人種をその土台に置き、圧政を敷く。
しかも、これらは個人の範囲で行われたものではなく、社会全体にその仕組みが埋め込まれていて、生活のごく当たり前の取り組みに定着させる。
こうした異常な状態が社会の「当たり前」となるに、どんな経緯があったのだろうか、と常々不思議に思っていた。
その一つの答えが、以前も紹介したガイ・カワサキのポッドキャストで見つかった。
作家・John Biewenとの対話の中でこんなやりとりがあった(抜粋)。
まったく知らなかった。
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John Biewen:
歴史家イブラム・ケンディは、多くのリスナーにはおなじみかもしれません。
現在、彼はかなりの反人種差別教育者であり、歴史家でもあります。
彼は、ポルトガル人のゴメス・デ・ズララという特定の人物を指摘し、1450年代に彼が書いた本で、アフリカの人々を初めて本当の意味で区別し、「劣っていて“獣のような“もの」と表現したと述べています。
自然史について考えてみると、私たちはすべてアフリカ人から進化してきたわけです。
当然、アフリカは人類の誕生地であり、私たちの種のほとんどの遺伝的多様性はアフリカにしか存在しません。
これは、単独で非常に多様な大陸があることを示しています。
その観点から見れば、誰かが「アフリカの人々全員を黒人と呼び、特に白人よりも劣っている」と宣言することがどれほど人工的であるかがわかります。
この考え方から、白人が最上位であり、一方、黒人が最下位である階層が形成されました。
「人種」を発明したのは奴隷商人でした。
その本を書いた男は、奴隷商人であり王族でもあったヘンリー・ザ・ナビゲーターという人物を称える本を書いていました。
Guy Kawasaki:
私は67歳で、自分にはかなり教養があると思っています。
どうしてこれまでこの理論を聞いたことがなかったのでしょうか?
これはどの歴史書にも載っていません。
デ・ズララのWikipediaのエントリーにもありません。
John Biewen:
・・・率直に言って、私たちは白人至上主義の上に築かれた文化に暮らしており、自分たちの歴史や経緯に向き合い、それを認めるということをあまりしてこなかったのです。
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【今日のまなび】
地球を地獄にするのも、楽園にするのも、結局人間次第ということ。
1450年代に、一人の伝記作家によって書かれた、うんざりさせられるある本が拠り所になり、希望の土地であったはずのアメリカの南部はその後250年もの間、地獄に化した。
これは実に日本の江戸時代に匹敵する長さだ。
ここにはどんな教訓があるのだろう。
まず、とにかく、歴史から学ぶこと。
そして、日々の違和感に目ざとくあること。
おかしいことはおかしいと反応すること。
では、この違和感は何を基準に感じればよいのだろうか。
教育とか、モラルとか、道徳とか、いろいろ考えたが、人間にはもっと普遍的で人間の本能に根付いた特質があることに気づいた。
その基準で判断すれば良いのではないか。
愛。
愛情なのだと思う。
社会の当たり前になってしまってからでは、もう遅い。
自分の考え、行動の一つ一つ、その積み重ねに、愛があるか否か。
肝に銘じたいと思う。
カーストを通して、人間の普遍的な価値とは何かについて考えさせられた一冊でした。
※こちらのブログポストに、続きを書いています。
ご参照ください。