内に積もる感情が丁寧に描かれていて、登場人物の行動にしっかりとついていける。
あらすじは、慎ましい絵画教室を運営する主人公のもとに、大きな画材会社を経営する社長の、抑圧された一人息子が絵を習いに来るところから始まり、その少年が教室に通いながら自我を取り戻すまでのお話。
タイトルの「裸の王様」は、まずは主人公が自らを取り巻く他者を評価したものだと思う。
あるとき子どもたちのための絵画コンテストを開催することを思いついた主人公だが、これを商業的機会と捉えた前出の画材会社の社長がスポンサーとなることを名乗り出、企画をまるごと奪われてしまう。
このコンテストでは、教員をしながら画家を続ける、主人公の古くからの知り合いも評議員を務めることになり、彼は子どもたちの創造性の育成に関する考え方が、主人公とは異なることを隠さない。
他にも、社長の取り巻きとして招待された美術界の大物たちも評議員として会場に来ており、主人公の男をどこか見下すように、ある一枚の絵の批判を繰り広げる。
しかし、さんざん批判したその一枚の絵こそ、スポンサー社長の息子が描いたものであったことを、主人公が最後に明らかにする。
社長の手前、辱めを受け、壇上を一人ずつ降りていく評議員連中の背中に、主人公の男は、「哄笑(こうしょう)」をする。
作品はそこで終わる。
よくよく考えると、この主人公の男こそ「裸の王様」なのではないかとも思えてくる。
主人公からすると、このコンテストが望んだ方向には向かわず、商業主義に供する評議員連中や、後援者の社長に一泡吹かせたつもりだっただろうが、果たしてそれが復讐となっていたのかどうか。
資本主義で成り立たつこの社会の片隅で、子どもたちの創造性をできるだけ自然な形で育成したいと、その圧力に抗いながらもがく彼は、その実、何の力も持たない弱者であり、悦に入って「哄笑」するその様こそ、裸の王様そのものなのではないか。
「哄笑」とは、一人で高笑いすることをいうのだそうだ。
芥川賞を受賞した本作では、後の作品で見られるような作者特有の自信にあふれたどっしりとした筆遣いが確立されておらず、開高の一種シャープでナイーブなところが前面に出ていて、これはこれで実に味わい深い。