ポルトガルについて、奴隷貿易、人種の交配の歴史について書かれた、良書に出会った。

 

リスボンで起きた大地震とその対応について書かれた本で、本来ならそちらにフォーカスすべきなのだが、当時のポルトガルの歴史背景に引き込まれた。

 

1755年11月1日、ポルトガルの首都リスボンで大地震が発生。

大航海時代以来交易として栄えたこの街を一瞬にして壊滅させた。火災が瓦礫と化した街を焼き尽くし、その後大津波が人々を襲った。

死者は25,000人を超え、ヨーロッパ史上最大の地震災害とされる。

しかし、首都壊滅の危機にあり、国家の対応は素早く、全権を委ねられた大臣カルヴァーリョは、被災者の救援と食料配布、遺体の処理、治安維持に対する対応を進め、首都再建に乗り出す。

同時にこの国を支配していた教会・貴族勢力を排除、ポルトガルの近代化を進める。

世界を変えた災害に人々はどう立ち向かったのかを描いた歴史ノンフィクション。

 

なお、当時のポルトガルについて考えるとき、奴隷貿易がついてまわる。

現代の人種差別の源泉を辿ると奴隷貿易があったことは、下記の記事で書いた通り。

【読書】『アンチレイシストであるためには 』(イブラム・X・ケンディ著、翻訳・児島 修)

 

本書の中でも下記のように触れられている。

 

P. 96 第四章 ポルトガルの変遷 

 奴隷貿易もまた、たいへんな利益をもたらした。健康なモーリタニア人一人当たりの収益は700%と見積もられた。この驚異的なマージンは、ごく普通の商船員をひと晩で獰猛な奴隷商人に変貌させるに十分すぎるほどのものだった。人間という商品の交易はすぐにブームになっていくが、ここには、人間の貪欲さに加えて、教会が公式に承認したことが大きくかかわっている。1455年にローマ教皇ニコラウス5世が出した勅書(ロマーヌス・ポンティフェックス)では、ポルトガルに次のような様々な権利が与えられた。「サセラン人、その他あらゆる異教徒、その他あらゆるキリストの敵の王国、公国、公領、所有地を侵略し、くまなく探索し、奪取し、制圧し、征服し、彼らが保持・所有するあらゆる動産・不動産を自己のものとし、彼らの支配下にあった人々を終身の奴隷身分とし、王国、公国、荘園、公領、支配地、所有地および物産のすべてを国王自身と継承たちに付与・分配し、入手したものすべてを、国王およびそれぞれの目的と利益に見合ったものに換えることを認める」 ― この勅書ほど効果的に奴隷貿易に拍車をかけたものは存在しない。人間を商品として売買するというとんでもない搾取事業をとりわけ悪辣なものにしているのは、それを際限なく煽り立てる商業の論理である。

 一般に流布している思い込みとは裏腹に、ポルトガル人は、アフリカの奥地を襲撃して現地人を誘拐するようなことはしていない。そんな必要はなかったからだ。彼ら一定の金を払って、アラブ人から、そして悲しいことにはアフリカの支配者たちから、奴隷を買い取った。1455年、エンリケ王子の配下にあったヴェネツィアの探検者アルヴィス・ダ・カダモストが今日のモーリタニアの西岸沖にあるアルギン島から出した手紙に、驚くほど鋭敏な目でとらえた、この貿易の仕組みが記されている。

 

 前述のポルトガルのインファンテ卿[エンリケ王子]は、このアルギン島をキリスト教徒に貸与しており、したがって、許可を持つ者以外は誰も、湾内に入ってアラブ人と交流することができないということを認識しておいてもらわねばなりません。許可を持つ者は、島に住居と交易所を構え、海外地域にやってくる上司アラブ人相手に様々な商品の取引を行っています。こちらが提供するのは、毛織物の衣類、綿、銀、アルチェゼリすなわち外套、絨毯、その他同種の品々で、筆頭にあるのが穀物―というのも、アラブ人たちの間では常に食料が不足しているからです。そして、彼らが交換品として持ち込んでくるのは、黒人たちの土地から連れてくる奴隷と金です。そのために、インファンテ卿はこの交易を未来永劫にわたって守るべく、島に城塞を築かせました。こうした背景のもと、今ではポルトガルの多数のキャラベル船が一年じゅう、この島に往来し……結果として、ポるガルはアルギン島から毎年、千人の奴隷を運び出すにいたっています。

 

15世紀の最後の20年になると、ポルトガルの複数の市場に到着する奴隷の数は年間2000人を超え、リスボンの市街でアフリカの黒人と成金の奴隷商人の姿を見かけるのは、もはや人目をそばだたせるようなことではなく、ポルトガルの生活の一部となった。貴族や富裕な商人の家で洗濯女や使用人として働くのは、確かに、過酷な現場作業やリスボンの波止場で商品を運搬する重労働より望ましいものではあったが、しかし、黒人奴隷がほぼどんな時代にも悲惨な運命のもとに置かれていたという事実は決して消え去ることができない。特に、伝統的な白人奴隷(大半は戦いの際に捕らえられた敵の捕虜)に比べると、その悲惨さは際立っていて、白人奴隷の場合は、少なくとも、わずかばかりとはいえ、それなりの権利を享受していた。たとえば、女性の白人奴隷に与えられていた性的搾取の拒否権は、黒人奴隷の場合はいっさい尊重されず、主人たちは、その気になった時はいつでも、所有物であるアフリカ人に対して好き放題に振舞った。この慣習はまさに制度化されたレイプにほかならない。ただ、こうした罪深い主人 – 奴隷関係の結果、生まれた私生児は、自由人として認められ、義務として洗礼を受けさせられてカトリック教会の一員となった。この異種族間の混交はその後も延々と続き、結果、ポルトガル人の容貌を決定的に変えるにいたった。英国やフランス、オランダなど、ほかのヨーロッパの国々は、奴隷の労働力はもっぱら植民地で使い、アフリカ人が母国の人口の相当な割合を占めることを決して許さなかったのだが、ポルトガルはそうではなかった。アフリカ人の奴隷を載せた最初の船がポルトガルに到着して300年後、18世紀の半ばになると、この国は誰の目から見てもはっきりと、”人種の混ざり合った場”になっていた。外国からの訪問者がリスボンを”アフリカの街”と表現する時、彼らが言及しているのは、この人種的なアマルガム(水銀などの金属でできている合金)のことである。歴史上、最も熱心な奴隷商人だったポルトガル人が、歳月を重ねるうちに、意図せずして、人種などには頓着しないメステイーソ(ヨーロッパ人とアメリカ先住民の祖先が混在する人を指す人種分類に使われる言葉)の社会を作りだした―これはアイロニーというよりむしろ、喜ばしい歴史の推移だととらえられるべきだろう。

 

 

なんという描写だろう。

奴隷貿易の背景にはアフリカ現地の支配者やアラブ人がいたこと。

奴隷人種との交配が進み、年月を経て自分たちの容貌が変わるに至ったということ。

 

以前、ブラジルの発展の過程を読んだことがある。ブラジルに最初に移住したポルトガル人たちは現地の民族と独立することを選び、反旗を翻すようになったのだと。

いずれの植民地もゆくゆくはその道をたどるのだろうが、ポルトガルはヨーロッパのどの国よりも早く大航海時代に入り、本来であれば植民地運営の手本を見せるはずのポジションだったと思うのだが、見事に失敗している。異種族間の融合に抵抗がなく、どちらかというと、むしろ好きな人たちなのかもしれない。

イギリスやオランダが母国に忠誠を誓ったのと大きく異なる。

 

 

偶然なのだが、関連して、こんな本も最近読んだ。

『母を失うこと: 大西洋奴隷航路をたどる旅』

いずれレビューを書いておきたい。

 

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