先日の参議院選挙が終わりました。
日本の上院である参議院は、国民が直接投票して議員を選ぶ仕組みです。
しかし、世界を見渡すと、上院が必ずしも選挙で選ばれるわけではありません。
その代表例が、イギリスの貴族院(House of Lords)です。
貴族院の議員は国民の投票ではなく、社会での功績や専門性によって任命されます。
報酬は固定給ではなく、出席ごとの日当(1日約342ポンド)が支給されるだけです。
それでも彼らは国家のために時間と知識を提供し、「名誉と奉仕で動くエリート集団」として重要な役割を果たしています。
今回は、なぜイギリスが上院を選挙制にしないのか、そしてその制度が示す価値について考えてみたいと思います。
「民意」と「理性」を分ける二院制
イギリスの二院制は、単純な権力分立以上の意味を持っています。
庶民院(下院)は「民意の代表」であり、国民の選挙によって政治的な正統性を担保します。
一方、貴族院は「理性や専門性の代表」で、選挙ではなく社会的功績に基づいて任命されます。
もし上院まで下院と同様に選挙で選ばれてしまえば、両院は似た存在となり、二院制の意義は失われてしまうでしょう。
イギリスは、民意の熱や短期的な流れに左右されず、熟慮するための場を残すという選択をしてきました。
再考の院:スピードの時代に立ち止まる役割
貴族院はよく「chamber of revision(再考の院)」と呼ばれます。
その役割は、庶民院が可決した法案を「止める」ことではなく、内容を見直し、修正することです。
1911年と1949年の議会法によって上院の拒否権は制限されましたが、その分、専門知識に基づく修正や提案が重要になっています。
下院が「スピードと政治の熱」を象徴するなら、上院は「熟考と質の保証」を担う存在だと言えるでしょう。
任命制という別の正統性
現在、貴族院議員の大半はライフピア(終身貴族)と呼ばれる任命議員です。
1958年に導入されたライフピア制度により、政治家だけでなく、学者、文化人、医療やビジネスの専門家が上院議員に任命されるようになりました。
ここで重視されるのは、「社会に何を残したか」という実績です。
選挙のような人気投票ではなく、国家に資する専門性や経験が評価されます。
これは「人民による政治」とは異なりますが、「人民のための政治」を実現するための別のアプローチとも言えるのです。
報酬ではなく、名誉と奉仕で動く
驚くことに貴族院議員には、下院議員のような年俸はありません。冒頭に述べたように出席ごとに日当、1日約342ポンド(約7万円)が支給されるだけで、活動の報酬は名誉そのものです。
イギリスにおいて「Lord」の称号は、「社会に尽くす覚悟」を意味します。
権力のためではなく、国家の未来のために知見を提供する責務が重視されるのです。
これは、選挙で支持を得ることを目的とした政治活動とは一線を画しています。
世襲貴族92名という「遺産」
かつて貴族院は700名以上の世襲貴族で構成されていましたが、1999年の改革で92名だけが残されました。
これらの議席は固定ではなく、空席が出ると貴族院内部で補欠選挙が行われます。
投票数はごく少なく、時には数票で当選が決まることもあります。
この仕組みは現代では「時代遅れ」と批判されることもありますが、完全廃止には至っていません。
ただし、世襲枠以外の大多数はライフピアであり、実質的には「功績で選ばれる知識人の院」へと変わっています。
ポピュリズム時代の安全弁
現代政治は、SNSやメディアの影響で「スピードと人気」が優先されがちです。
その結果、短期的な政策が重視され、数十年先の国益が後回しにされるリスクがあります。
こうした時代だからこそ、選挙の圧力から解放された熟議の場が重要になります。
貴族院は、短期的な人気よりも長期的な視野を持ち、政策の持続可能性を冷静に検討する役割を果たしているのです。
イギリスの「改良主義」
イギリスは、上院を完全に民主化する道を選びませんでした。
代わりに、伝統を壊さず、中身を少しずつ改革するという漸進的なアプローチを続けています。
1958年にライフピア制度を導入し、1999年には世襲貴族を大幅に削減。
2014年には議員の自発的辞任を認めるなど、現代的な改良を加えてきました。
「伝統を活かしつつ制度を進化させる」――これがイギリス政治の知恵だといえます。
日本の参議院はHouse of Lordsの影を継いだのか
日本にも、かつて「貴族院」がありました。
明治憲法下の貴族院は、イギリスのHouse of Lordsをモデルに、華族や勅任議員が議席を持つ非選挙制の上院として設置されました。
戦後、民主化の象徴として参議院が誕生し、完全選挙制が採用されました。
しかし参議院は、衆議院と似た性格を持ちやすく、「熟議の院」としての独自性は弱まりがちです。
一方、イギリスは「選挙によらない上院」を維持し、専門性と長期的な視点を政策に反映させてきました。
この対比は、「選挙万能主義」を見直すヒントになります。
結び――“選挙に頼らない正統性”が示す未来
貴族院は、「民意の即時性」と「理性の持続性」を二院で分担させるという発想の結晶です。
選挙で選ばれないことは一見すると非民主的に思えますが、短期的な世論の波に飲み込まれない「熟議の場」を確保するための仕組みでもあります。
参議院選挙が終わった今こそ、日本の上院の在り方を見つめ直す好機かもしれません。
「選挙だけが民主主義の唯一の正統性なのか?」
イギリスの貴族院は、その問いに一つの答えを与えてくれる存在なのだと思います。▪️