2025年5月、ハーバード大学が米国政府から前例のない圧力を受けています。

米国土安全保障省(DHS)は、同大学の留学生受け入れ資格(SEVP)を突然取り消しました。

これにより、約6,800人の国際学生がビザを失い、在留資格の剥奪に直面する可能性があります。

さらに政権はハーバードとの約1億ドル相当の連邦契約を停止し、2億ドルを超える助成金の凍結、そして最大30億ドルに及ぶ資金の再配分まで検討していると報じられています。

その理由として政権は、反ユダヤ主義への不十分な対応、人種を考慮した入学方針の継続、中国との関係性への疑念などを挙げています。

というふうに、ハーバードは今、かつてない「制裁の対象」となっているわけですが、次から次に発表される、ほぼ「弾圧」と呼んでもよい気もする一連の動きには驚かされるばかりです。

誰より学生の皆さんが気の毒です。

ただ、今回の一件は当事者だけではなく、社会に向けて大きな問いを投げかけている気もします。

それは、「学びとは誰のもので、何のためにあるのか」という根源的な問いです。

 

「自由」を掲げるグローバル教育の裏側で

ハーバードをはじめとするアメリカの大学は、「自由な思考を育て、多様な価値観を尊重する学びの場」として、グローバル教育の理想像を体現してきました。

国境を超えて学生が集い、文化や宗教、言語の違いを越えて学び合う──それが世界市民を育てる手段だとされてきました。

でもそれは本当に「自由な学び」だったのでしょうか?

「アメリカ的な価値観や、思考様式を内面化する過程」になってきたのではないでしょうか?

 

フランス植民地教育に見られる構造との類似

アメリカの大学というエリート養成機関が、追従する世界中の優秀な若者を教育するという構図が、かつてフランスが植民地で行っていた教育政策と驚くほど似ていると私には感じられます。

フランスは19〜20世紀、セネガルやインドシナから選抜した若者を本国で教育し、フランス語と文化を徹底的に教え込みました。

彼らは現地に戻ると、見た目は植民地出身者でありながら、思考様式はフランス的という「中間的存在」となり、支配構造を内部から支えました。

ポストコロニアル研究では、これを「文化的同化」あるいは「知の帝国主義」と呼びます(Fanon, 1952/Said, 1978)。

現代のアメリカ型グローバル教育もまた、「自由」や「多様性」を掲げながら、実質的には「アメリカ中心の価値観」を標準とする思考枠組みを形成しています。

学生は、その論理に適応することで「世界標準の人材」として育成されていきます。

 

教育を支配しようとする国家の力学

今回のトランプ政権によるハーバード大学への対応は、教育という場が、いかに国家の政治や権力と結びつき得るかを露骨に示した出来事だと言えます。

現政権にとって、大学は「期待通りにふるまうべき場所」であり、その期待──たとえば、反ユダヤ主義に毅然と反対し、入学方針を政治に従わせ外国との関係も国家の論理に沿わせること──に従わなければ、制裁が待っている。

ビザの発給、連邦資金の拠出、教育機関としての認証。

こうした「制度の力」を使って、国家は大学に圧力をかける。

つまり、「自由な学びの場」を、国家の都合に合わせて形づくろうとする。

そんな状況下で、学生たちは本当に自由に学ぶことができるのでしょうか?

 

学ぶことは、従うことなのか?

教育とは、異なる価値観が交差し、批判と対話によって思考が深まる場であるはずです。

だけど今、「グローバル教育」の名のもとで提供されている多くの学びが、実は「英語で論じる力」や「アメリカ流の論理的思考」「リベラルであること」など、アメリカ社会で評価される“正解”に近づくことを求める構造になってはいないでしょうか。

そして今、ハーバード大学という「自由の象徴」ですら、その「自由さ」ゆえに、政権から敵視され、制度的な排除の対象になっています。

 

無意識に受け入れてきた「帝国の論理」

私たちは長い間、気づかないうちに、ある価値観を押し付けられてきたということかもしれません。

ハーバードを出ていれば、それだけですごい人間である。

そのような見えない基準が、世界中の教育やキャリアの上にのしかかっていたように思えます。

いつの間にか、「世界のエリート」になるには、アメリカの名門大学を出ていることが必要条件だと刷り込まれ、それを疑う視点すら、私たちはいつしか手放していたのです。

あえて露骨に皮肉なことをいうと、世界中のエリート層の教育を、アメリカという“帝国”に委ねてきた“つけ”を、今、私たちは払わされているのかもしれません。

自由な学びを求めていたはずが、知らず知らずのうちに、ある一つの価値体系の中で評価され、整えられ、再生産されてきた、ということですね。

教育とは何か――

その問いが、私たち自身の内面にも向けなければならない時代に入っているのかもしれません。

 

結び:誰の論理で、私たちは学んでいるのか?

「グローバル教育」は、自由や多様性の名のもとに称揚されてきました。

しかしその実態は、多くの場合、「力ある国家」が世界に押し広げてきた教育モデル――つまり、帝国の知の延長線上にある構造だったといえます。

教育とは、世界を知る手段であると同時に、世界の“見方”そのものを形づくる枠組みです。

だからこそ、私たちは問う必要があります。

私たちは誰の論理で学び、誰の物差しで評価されているのだろう?

これは、教育という制度にとどまらず、私たち自身がどんな世界に住み、どんな価値観を支えてきたのかを問う、私たち自身への問いでもあります。■

 

【参考文献】
Edward Said, Orientalism(1978)
Frantz Fanon, Black Skin, White Masks(1952)
Gauri Viswanathan, Masks of Conquest(1989)
Philip Altbach, “Globalization and the University,” Tertiary Education and Management, 2004
Pierre Bourdieu, Homo Academicus(1984)

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