奴隷貿易についてはこれまでもたくさん読んできたし、読んで学んだことをここに書いたりもした。

【読書】『アンチレイシストであるためには 』(イブラム・X・ケンディ著、翻訳・児島 修)

【読書】『リスボン大地震』 ニコラス・シュラディ著

 

Economistのポッドキャストは毎日のように聞いているのは以前も書いたとおりだが、最近この分野に関する新しい研究が行われたとのこと。

『アメリカの奴隷貿易における女性の役割について』と題したその研究では、南部の白人の女性たちがこれまで考えられていた定説とは異なり、奴隷に貿易に深く関係していたことを明らかにした。

元記事はこちらを参照:

https://www.economist.com/united-states/2024/06/18/new-research-exposes-the-role-of-women-in-americas-slave-trade

 

「彼女たちはそれがどれほどひどいものかを知らなかった」

 

これは、1850年代に南部を巡った北部のジャーナリスト、ジェームズ・レッドパスが読者に南部白人女性の奴隷制度支持を説明するために述べた言葉とされる。

 

女性たちが奴隷貿易の醜悪な部分を見ずに生活し、オークションやプランテーションでの鞭打ちなどの罰を目にすることはほとんどなく、奴隷貿易が巨大な商業となっていることに無知であったと彼は考えていた。

長い間、歴史家たちは奴隷制度は男性のビジネスであると同意していたという。

 

しかしそもそも、広大な土地を有していたとはいえ、白人男性たちが所有物である黒人奴隷たちに鞭を振り回したり、棒で殴りつけたり、極悪非道の限りを尽くしているのを、同じ敷地内に暮らしていた女性たちが知らなかったとはとても考えられないのだが、やはりこの考えは誤りであったらしい。

それどころか積極的に奴隷貿易に関わっていたのが白人女性だったことが調査で分かった。

 

オハイオ州立大学の経済学者たちは、最大の奴隷市場であるニューオーリンズのデータを分析し、女性の関与を定量化した。

そして、全取引の30%、女性奴隷を含む取引の38%で女性が買い手または売り手であったことを突き止めた。

名前を国勢調査記録と照合することで、奴隷を扱ったのは独身や未亡人だけではなく、夫のいる既婚女性も関わっていたことが示されたという。

外国人旅行者の日記から、南部の女性たちが最上級の絹を身にまとい、「貴重な宝石で輝く」姿で奴隷市場で入札する様子が記録されていたことが分かっている。

また、1930年代に連邦政府が行ったインタビューでは、元奴隷たちがしばしば、刺すような草で白人女性に殴られた話や、家に帰ると子供がいなくなり、主人が札束を数えているのを見たという話を語ったとされる。

これらの数字は、女性が奴隷経済にどれほど重要な役割を果たしていたかを示している。

 

見えてくるのは、南部の前代未聞の女性たちにとって、奴隷制度は単なるビジネス以上のものであったということ。

当時、女性が結婚するときに財産やお金を男性に譲渡することを義務づける共同体法があったが、奴隷については例外が設けられていたそうだ。

家具や衣類と同様に、花嫁は所有していた人間をそのまま保持し、夫の邸宅に連れて行くことができた。

また父親たちは娘たちの将来を確保するために洗礼式、誕生日、婚約の際に奴隷を贈った。

 

記事によると、大人になると、女性たちは奴隷を使って経済的独立を確立するようになったという。

チャールストンやニューオーリンズのような都市では、奴隷を使ってケーキやドレスを販売し、利益を秘密裏に稼いでいたし、中には奴隷売春宿を経営する女性もいたようだ。

その後、女性たちはその現金を使って奴隷市場に再投資した。

扱うものが違うというだけで、この辺りは現代の投資術と何ら変わりはない。

夫たちがしばしば畑で働くための頑強な黒人男性を買ったのとは異なり、女性たちはより安価な女性を購入し、後に彼女たちが再生産することでも利益を得たという。

 

南北戦争が起きる直前、南部の女性たちは北軍が自分たちの物質的富だけでなく、経済的独立も奪おうとしていることを理解するようになったという。

南部の男たちが戦争に出向き、連邦議会が1860年代初頭に奴隷の没収を政府に許可する没収法を可決すると、女性たちはパニックに陥った。

戦前、南部の富の半分は奴隷にあったからだ。

連邦の崩壊は多くの南部人を困窮させた。

この困窮は続き、南部の女性たちが収入を自ら管理し、財産を持てて、子供の監護権を取り戻し、投票する権利を得るまでにはここから数十年かかった。

この調査に携わった研究者は、彼女たちの20世紀に入ってからの人種隔離の闘争は、かつて知っていた力の感覚によって燃え上がったと主張している。

記事は、こう結んでいる。

「他者の抑圧の中で彼女たちは自由を味わったのだ」

 

この研究に限らず、奴隷貿易といった人類の忌まわしい過去をつぶさに見ていくと、同じ人間でも環境や時代が異なれば、やってよいこと、やってはいけないことがコロッと変わることをこれ以上ないくらいはっきり表している。

私がこの分野に関心があるのは、極限の状態に置かれた時に人間がどういう行動を取るかに興味があるからだが、そこに果たすいわゆる「常識」の力はとてつもなく大きい。

それはもはや悪を悪とも思わせない力を持つ。

 

しかし、救われるのは、その中でも人間が持つ将来の善の特質を見るときだ。

 

記事の最後には元奴隷たちが、困窮した自分たちの白人旧所有者にジャガイモを供給した、とあった。

 

これに勝る愛の行為があるだろうか。

 

人間とは、いつの時代も、最悪であり、最高でもある存在なのだと思う。■