「またか」と思いながらニュースをスクロールしてしまう。
ロシアとウクライナの戦争は終わらず、イスラエルとガザの対立は苛烈さを増し、アメリカでは指導者たちが分断の象徴となって罵り合っている。
この終わりの見えない惨状を前にして、何を感じるべきなのか。
何を思えばいいのか。
私は、悲しいほどに無力な「慣れ」を感じてしまいます。
そして、気づけばその無力さを正当化するように、無関心という殻に身を包もうとする。
これはきっと私だけの感覚ではないと思います。
この時代の空気に、どこか共通する「沈黙」が漂っている気がするのです。
アーレントが見抜いた「悪の顔」
20世紀の政治哲学者ハンナ・アーレントは、ナチス戦犯アドルフ・アイヒマンの裁判を傍聴し、『イェルサレムのアイヒマン』という一冊にまとめました。
よく知られている通り、彼女がそこに見たのは、アイヒマンというのは、サディスティックな怪物などではなく、驚くほど事務的で、命令に忠実な「普通の人間」でした。
アーレントはそこでこう名付けたわけです。
「悪の凡庸さ(banality of evil)」。
つまり、恐ろしい悪とは、血に飢えた怪物の仕業ではなく、考えることをやめた人間が、ただ組織に従った結果、生まれてしまうものだということです。
悪とは、激情からではなく、思考の放棄から始まる。
これは恐ろしいことです。
思考しつづけるという責任
アーレントにとって「思考すること」は、知識の問題ではありませんでした。
それは、人間が人間らしくあるための最低限の条件であり、暴力や嘘に加担しないための倫理的な自衛手段でした。
彼女はこう言います。
“The sad truth is that most evil is done by people who never make up their minds to be good or evil.”
(悲しい真実は、大半の悪が、善になろうとも悪になろうとも決心しない人々によって行われる、ということである)
考えることをやめるとき、人はどんなことでもやってのけるようになる。
これは、21世紀に生きる私たちにも、あまりに切実に響く言葉ではないでしょうか。
現代においては思考停止のかたちが変わっきている気がします。
延々と流れてくる過剰な情報に疲れ果て、もう何も感じたくないという感情として現れる、これも思考停止の一つだと思います。
心を守るために、私たちは「慣れ」や「無関心」という名の鎧を身にまとうようになるんだと思います。
無関心とは、新しいかたちの暴力かもしれない
これら世界で起きてる災いにおいて、私は当事者ではありません。
ただスマートフォン越しに、遠い国の爆撃や飢餓を見ているだけの傍観者です。
それでも、「またこの話か」とため息をつき、「どうせ何も変わらない」と目を背けた瞬間、自分の中の思考が鈍りはじめるのを感じます。
そして、その鈍さがやがて、他者への想像力の喪失につながる。
そしてそれこそが、アーレントが警告した「凡庸な悪」の入り口ではないかと、時折ぞっとします。
もちろん、無関心とは、直接的な暴力ではありません。
けれど、苦しんでいる誰かを「見えない存在」にしてしまうという意味で、それもまた一種の社会的暴力なのではないでしょうか。
私たちにできる、最も小さな抵抗
アーレントの思想は、私たちにこう問います。
「あなたは、自分の頭で考えることをやめてはいないだろうか?」
そして、
「あなたは、いま起きていることに対して、まだ痛みを感じられるか?」
私たちにできる最小で最大の行動は、この問いから逃げずに、自分の感情と向き合うことかもしれません。
全部を知ろうとしなくていい。すべてに関心を持たなくていい。
ただ、無関心になることに抗う心だけは、まだ捨てずにいたいと思います。
この世界は、考える人間を必要としています。
そして、もっと求められているのは、感じることをあきらめず、想像力を手放さない人間だと思います。苦しんでいる人の痛みを感じられる人だと思います。
それは時に、傷つくことでもあります。
でも、だからこそ、「まだ感じられる自分でいること」は、この時代における最も静かで尊い抵抗なのだと思います。■
● 参考文献
• ハンナ・アーレント『イェルサレムのアイヒマン──悪の陳腐さについての報告』
• ハンナ・アーレント『人間の条件』
• Margaret Canovan, Hannah Arendt: A Reinterpretation of Her Political Thought