日本が世界に誇る二人の作家が語る、文学の過去・現在・未来。
【目次】
明快にして難解な言葉
百年の短篇小説を読む
詩を読む、時を眺める
言葉の宙に迷い、カオスを渡る
文学の伝承
漱石100年後の小説家
◆本日の抜き書き: P. 126
なぜ外国詩がわからないのか
大江 お互い、文学の仕事をはじめてから五十年近く生きてきましたが、古井さんと私で違うのは、やはり古井さんは大学を卒業してから作家としてデビューされるまでの十年間が充実していることです。
古井 充実というよりも楽をしました。
大江 小説を書き始める前に、ドイツ文学者として金沢大学や立教大学で教えたり、ヘルマン・ブロッホの『誘惑者』やロベルト・ムージルの『愛の完成、静かなヴェロニカの誘惑』の翻訳をされたりした。日本の優秀な外国文学研究の伝統の中で勉強されたので、本の読み方が玄人になっている。とくに詩の読み方がはっきり違っている。それに比べると、私は結局、本の読み方の玄人になることができなかった。外国語の本は毎日のように読みますけど、私には散文しかわからない。一番よくわかるのがサイードやチョムスキーが書いた論文で、次が小説で、それに比較することで、自分には外国語の詩が根本的にわからないところがあるのを実感します。そこで、具体的に私は死を翻訳できません。
ところが、『詩への小路』(書肆山田刊、2006)を読むと、古井さんはまず詩の翻訳をめざしながら、この言葉でこのように訳していいかと常に自他に問いかけられる。とくに古井さんご自身、小説家という実作者だから、自分はこのように発想できないが、なぜだろうと自身に懐疑を向けられている。その点については、ことさら古井さんの気持ちが私にはよく理解できると思います。それで今日はこの本を手がかりに、外国詩を読むことについてお話を伺いたいと思ってきました。
古井 外国文学研究者になって十年目にもなると、「これだけやっても自分には外国語読めない」と絶望する時期があります。とくに絶望を誘うのが詩なんですね。振り返ると僕もちょうど十年ぐらいで大学をやめている。
なぜ外国詩がわからないのか。まず第一に、単純に文化体系や言語体系が違う国の人間が読んでも、そのよさが伝わりにくい。第二に、音韻がつかみにくい。詩ですから意味を音韻に乗せて展開させるわけですが、外国の詩だとそれがつかめない。その証拠に、いいと思って、さて暗唱しようとするとできなことが多いのです。第三に、外国語の詩を読むというのは「行為」なんです。ある瞬間だけに成立する運動行為なので、それなりに感動したとしても、本をパタッと閉じると言葉が頭の中で散ってしまう。『詩への小路』の中でも、訳した後に自分の訳文を読むと原文の呼吸がわからなくなったりしました。それにまた、小説家が詩を読むとなると、小説家としての呼吸というのものがあって、とかく詩の波長とすこしずつずれる。小説家が詩を読むこと自体の難しさもあるのだと思います。いずれにしても僕も同じで外国語の詩は難しい。