読書好きなら誰でも、新刊が出れば必ず読む作家、というのが一人や二人あると思う。

私にとってこの人はまさにそんな作家だ。

 

フェルディナント・フォン・シーラッハ。

1964年ドイツ、ミュンヘン生まれ。ナチ党全国青少年最高指導者バルドゥール・フォン・シーラッハの孫。1994年からベルリンで刑事弁護士として活躍する。
『犯罪』『罪悪』『コリーニ事件』『禁忌』など多数の作品を書いている。

 

 

 

 

その研ぎ澄まされた描写は、まるでアルベルト・ジャコメッティの彫刻作品のようで、邪魔なものがそぎ落とされていて、病みつきになる。

もちろん日本語で読んでいるので、そういう意味では、翻訳家の酒寄進一さんの技量なくしてはあり得ない読書体験だ。

まだの人が羨ましいくらい、ぜひ手に取って読んでほしい。

 

本作『珈琲と煙草』は、氏のテーマである法律の世界を大きく超えて、人間の心理や道徳的ジレンマ、人間の生きる意味についてまで探求する読み応えのある短編集だ。

著書は本書の文章をBeobachtung(観察)と呼んでいるそうだ。

実際、洞察を持って、自らの人生や法律を武器に戦ってきた数々の戦歴を振り返り、ここから先の人生を、人生の目的を見つめている。

珈琲と煙草をお供に。

 

文体についてはいつも考えるが、ここに一つ自分が理想とする形があったと思った。

主張を中心に据え、そこに人称の使い分けを駆使しながら、小説の力を借りながら人生の観察を淡々と述べていく。

 

訳者あとがきにこんな説明がある。

 

P. 162 

本書は全部で四十八の観察記録からなる。雑誌などに掲載されたテクストを再録したのは六編だけで、あとは書き下ろしだ。

観察記録というだけあって、いわゆるエッセイと呼べるものが多く、三人称と一人称が使い分けられている。

そしてそこに小説と思われるテクストが加わっている。

 

 

ナチスの大幹部を祖父に持ち、それゆえに敗戦後は一族の多大な財産も没収されるなど、その出自から辛酸を嘗めてきた作者に取り、法律家となったのは一族の贖罪という面もあったのだろう。

本作でもその点に触れる箇所がある。

 

P. 62

私の祖父バルドゥール・フォン・シーラッハは当時、ウィーン総督兼帝国大管区指導者だった。

「ヨーロッパで活動するユダヤ人はすべて、ヨーロッパ文化の敵だ」

祖父は一九四二年の演説の中でそういった。ユダヤ人がウィーンから移送された責任は祖父にある。

・・・これは「ヨーロッパ文化への積極的な貢献」だ、と祖父は主張した。

私は祖父のこの演説と行動に怒りと恥ずかしさを覚え、そのせいでいまの自分になったといえる。

 

 

エピクテトスは古代ギリシアのストア派の哲学者であり、私が最も好きな哲学者のひとりだ。

彼の書いた『要録』の教えについて触れている小作品が収録されており、ここに紹介する。

私たちは、いつかいかに人生を達観できるようになったたとしても、人間であることを止めることはできないことがよく分かる一篇だ。

 

 

P. 126 

友人が死んだ。早すぎる死だった。五十八歳にしかなっていなかった。夫人とふたりの子どもが、まだ埋め戻されていない墓穴のそばに立っていた。

 

私は十六歳のとき父と死別した。そのとき、おじから薄い本をもらった。エピクテトスの『要録』だった。エピクテトスは身体障害を負った奴隷だった。皇帝ネロの顧問に買われた。当時は教養のある奴隷を抱える金持ちが多かった。所有者はエピクテトスに教育を施し、ネロの死後、奴隷の身から解放した。

哲学者がことごとくローマから追放されたとき、エピクテトスも逃亡を余儀なくされた。彼はギリシアの小さな島に移り住み、生涯、ランプとわら袋とベンチと藺草を安打掛布以外なにも持たなかった。死んだのは八十歳。紀元百三十年ころのことだ。エピクテトスは自分ではなにも書き残さなかった。彼の書は弟子たちによって著されたものだ。

私のおじは戦時中、海軍軍人だった。砲弾で左腕と右手の三本の指を失った。戦後、方角を学び、裁判官になり、最後には参審裁判所の裁判長をつとめた。

おじがくれた本は、戦時中ずっとコートのポケットに忍ばせ、野戦病院では枕元に置き、裁判官になってからは法壇にのせていたものだ。

その本はこんな文章ではじまる。

 

「この世には私たちの力が及ぶものもあれば、及ばないものもある。私たちの力でなんとかなるのは『受容と判断、衝動、欲望、拒絶』だ。どれも私たちが自分で働きかけ、責任を負わねばならないものだ。一方、私たちの力では如何ともしがたいものには『肉体、財産、評判、地位』がある。つまり私たちが自分で働きかけることができず、責任を負えないものだ」

 

簡単そうに聞こえるが、当時の私には理解ができなかった。エピクテトスは目を見張るような哲学体系を打ち立てたわけではない。『要録』にはそもそも処世術以外のなにも含まれていない。エピクテトスの慰めの言葉は簡潔で、人間的で明快だ。なにを変えることができ、何を受け入れざるをえないか、そしてどうすればそれを区別できるかを教えてくれる。それがすべてだ。

 

「子どもや妻にキスをするときは、『人間にキスをしているのだ』というといい。そうすれば、死に際して、取り乱さずにすむだろう」

 

死んだ友人の子どものひとりは四歳だった。金髪の巻き毛のかわいらしい少年だった。母親がいった。

「父親がひとりぼっちにならないようにといって、この子は棺に自分のキリンのぬいぐるみを入れたんです」

 

エピクテトスの言葉で人は生きることができる。ただしそれは、なにも起きていないときだけだ。

 

 

 

文体、テーマ、スタイル、いずれをとっても一級の作家だと思う。

ぜひ手に取って読んでみてください。