何かをちゃんと読みたいとき、本当に真剣に読んで自らの血肉としたいとき、本来なら文字通り、一字一字をじっくりしっかりと読めればいいが、自分みたいにせっかちだといつもいつもそんなふうに取り組めない。
すぐに携帯電話も鳴るし、慢性的に腰も痛むわで、毎日毎日、何かと気が散ることばかり。。
今の時代、携帯電話に触らないで30分いられるかどうか・・・。
そんなときは腹をくくって、抜き書きをする。
ときどきこのサイトでも抜き書きしたものを載せている。
これが一番、じっくり読むことになる気がしている。
写すには読まないといけないから。
(有名な話だが、勝海舟も全58巻のオランダ語の辞書「ドゥーフ・ハルマ」を一年間で二部、書き写したという)
さて関連してこちらの対談が素晴らしかった。
いろいろな作家の執筆方法などを詳しく聞いていく内容で、とても勉強になる。
このシリーズを最近よく聞いているのだが、抜き書きについて話し合われていた。
今回注目したのは、森見登美彦氏とロバート・キャンベル先生の対談の回。
聞くと森見氏も読書中に気になったことなどを、よく抜き書きをするそうだ。
曰く、そうすると頭が良くなったような気がするから。(笑)
ロバート・キャンベル先生がいうには、江戸後期の作家、たとえば滝沢馬琴なども同様のことをしていたと。
作品として形になって残っているものは、全体の一割くらいらしい。
なんと残りの9割のほとんどが過去の作品の抜き書きであったというのだ。
驚いた。
手元に一冊、何度も読み返す本がある。
何度も図書館で借りたもの。
市場にはあまり出回っていなくて買えないのだ。
あってもとても高価で簡単に手を出せない。😿
あ、また読みたいな、というときは都度借りなければいけない。
さてさて今日の抜き書きは、その本の中から、フランスのノーベル文学賞受賞者の創作方法について。
『作家の仕事部屋』
ジャン=ルイ・ド・ランビュール編 岩崎力 訳
■ 抜き書き:
P. 147
「私は夢を見ないために、苦しまないために書く」
― あなたは仕事の方法をお持ちですか。あるとすればどんな方法ですか?
仕事の方法なんて、私がどうしてそんなものを持ちえましょう? 新しい書物はそのひとつひとつが事物の新しいヴィジョンに対応しているのです。必然的に、その新しいヴィジョンを表現するために、手探りしなければなりません。私は自分の書物を、冒頭からはじめて終りまで一気に書きます。ボールペンで。
私は21×27の大判の白い原稿用紙を使って余白なしに表裏びっしり書き、ほとんど抹消もしません。というのも、抹消することに私は肉体的な嫌悪を感じるからです。書き上げると、植字工のために全体をタイプで打ち直します。私の手書き原稿では、彼らには細かすぎるらしいのです。いずれにしろ、初稿が私を興奮に駆り立てるのと同じだけ、第二稿は私をうんざりさせます。タイプはいくら習っても覚えられないので、全部を二本指で打たなければなりません。つい面倒になって、あちらこちら、単語や形容詞を省いてしまうようなことになります。しかしそうすることによって私はその気もなしに、自分の文体を磨くのかもしれません。しかしながら、そういう些末事を除けば、初稿が決定稿になります。それはなにかしらとても深いものに呼応しているので、ある条りをはじめて書くつもりでもう一度書いてみた時、新しく書き下ろした文章が、コンマ一つ除いて、三カ月まえに書いたものと全く同じだと確かめることができたほどです。