ストア哲学の重要な教えのひとつは、わたしたちがコントロールできるもの、できないものの違いを知り、それを真摯に受け入れることだという。

まだまだ勉強の途中だが、ストア哲学が社会への関りを大切にし、人間も自然も同じように大事にすることを説く哲学というのは分かってきた。

 

さて、本日はこちらの一冊をご紹介する。

 

迷いを断つためのストア哲学
マッシモ・ピリウーチ
月沢 李歌子  

 

出版社の説明にはこうある。

「人はいかに生きるべきか? 古代ギリシャ・ローマ時代にこの問いを考えぬいた人生哲学の元祖、ストア哲学。
 『コントロールできるものとできないものを区別せよ』『富や名声に価値はない』……現代人をストレスから救う、どんな自己啓発書にもまさる哲人の教え」

 

この年末年始に読んで感銘を受けた一冊。

 

古代ギリシアの哲学者・エピクテトスを手本に、ストア哲学とは何か、わたしたちの生活にどう当てはめるべきかを、ニューヨークの大学で教鞭をとるイタリア出身の教授がひも解いた解説書。

 

解説といっても自身の経験を交えながらエッセイ風にまとめられており、わかりやすくためになる。

 

ちなみにこの哲学者、エピクテトスとはこんな人物。Wikipediaからの抜粋。

エピクテトス(Επίκτητος, Epiktētos50年ごろ – 135年ごろ)は、古代ギリシアのストア派の哲学者。その『語録』と『提要』は、すべてのストア哲学のテキストの中でおそらくもっとも広く読まれ、影響力の大きなものであるといわれる。苦難の中にあって平静を保つことや、人類の平等を説いたその教えは、皇帝マルクス・アウレリウスの思想にも引き継がれており、ストア主義の歴史上重要な意味を持つとみなされている。

 

いつもどおり、自分に響いた具体的なポイントを下記に抜粋する。

 

(サウナが好きで日常的に銭湯やらサウナに出かけている者としては、下記の3.運命次第に描かれた浴場のアドバイスはとりわけ響いた。
歴史の時空を超えて現代の浴場マナーにもつながる学びがあるとは思わなかった。
次からはもっと広い心で運命に身をゆだねる心持ちでサウナに出かけたい)

 

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P. 225 ~ 

…本書を通じて学んだストア哲学の教えを簡単にまとめたいと思う。

 

エピクテトスとの対話を通じて、わたしたちはストア哲学の考え方を多く学んだ。まずは、ストア哲学の三つの原則である。ストア哲学の原則は欲求、行動、需要であり、それぞれが自然学、倫理学、論理学と関係がある(2章を読み返して、三つの原則と関連する研究分野についての理解を新たにするのもいいかもしれない)。三つの原則は本書の構成の理論的な柱となっている。本章で提案する精神的な訓練をもっとも効果的に行うために、ストア哲学の三原則を簡潔にまとめてみよう。

 

1.美徳は最高の善であり、その他は無関係である

ストア哲学の源はソクラテスである。ソクラテスは、徳は最高善であると論じた。どんな状況でも価値があり、健康、富、教育といったものを正しく用いる助けとなるからだ。徳は何にも代えがたいものなので、ストア哲学では、それ以外のことは無関係ととらえる。また、好ましい無関係は追及するものの、好ましくない無関係からは、美徳の妨げにならない限り、距離を置くようにする。この姿勢は、現代経済学では、辞書式選好と呼ばれる。たとえば、どれだけランボルギーニが好きでも、娘とランボルギーニを交換できないと考えるのが辞書式選好だ。

 

2.自然に従う

「自然に従う」とは、社会生活において理性を働かせることである。ストア哲学では、いかに生きるかを知るために、いかに宇宙が成り立っているかを知るべきだと考える。人間は理性を持つ社会的な動物なのだから、より良い社会を作るために理性を働かせるべきだ。

 

3.コントロールできるものとできないものを区別する

わたしたちにはコントロールできるものとできないものがある(ただし、影響を与えることはできるかもしれない)。わたしたちが精神的に十分健康な状態にあれば、わたしたちの意思決定と行動はわたしたちがコントロールできる。そのほかのことはわたしたちにはコントロールできない。コントロールできることのみを気にかけ、あとのことは平静さを持って対処すべきだ。

 

さらに、本書の提案を実践すると、ストア哲学の四つの美徳が身につくだろう。

 

①(実践的な)知恵- 複雑な状況に可能な限りうまく対処する

②勇気- すべての状況において、物理的にも、倫理的にも正しいことをする

③公正さ- すべての人を、地位にかかわらず、公平に、親切に扱う

④節制- 人生のあらゆる面において、節度を保ち、自制をする

 

 

ストア哲学の基本的原則をも学んだあとは、いよいよわたしがエピクテトスの『提案』(実際にはアリアノスがまとめたもの)から抽出した一二の実践について考え(実践し)てみよう。

 

1.自分の心像を調べる

「そこで、強い心像すべてに言うようにすればいい。『きみが心像であり、心像がきみから生まれるのではない』それからきみの基準に合わせて試し、評価し、そして尋ねるのだ。『これは自分がコントロールできるものか、できないものか』もしコントロールできないものであれば、次のような覚悟を決めたまえ。『これは自分には関係ない』」

コントロールできるもの、できないものという二分法は、本書の最初に紹介した。エピクテトスは彼のもっとも基本的な教えを実践するよう勧めている。それは、「心像」をつねに調べることである。心像とは、出来事や人や誰かに言われたことに対する最初の反応である。

…たとえば、これを書く数日前に、わたしは食中毒にかかり(傷んだ魚が原因)、四八時間苦しんだ。そのあいだ何もできなかった。もちろん仕事も執筆もである。通常であれば、この経験は「悪い」ことであり、たいていの人は不満をもらして同情を買おうとする。だが、私の身体の生理学と病原因子となるかもしれないものは、わたしにはコントロールできないい(とはいえ、食事をしたレストランで魚を食べるかどうかはコントロールできた)。よって、食中毒で具合が悪くなったことに文句を言っても仕方がない。起こったことはもう変えられないからだ。

 

2.永遠に存在するものはないことを忘れない

「喜ばしいもの、有益なもの、執着しているものがどのようなものを忘れてはいけない。価値の小さいものから始めよう。たとえば、それが器なら、『わたしはその器が好き』と言えばいい。そうすれば、それが壊れたときに、動揺することはないだろう。妻や子どもにキスをするとき、自分に繰り返し言うといい。『わたしは死すべきものにキスをしている』そうすれば、彼らが奪われたときに取り乱すことはないだろう」

『提要』にあるこの有名な節を聞かせると、学生たちはショックを受ける。ストア哲学の知恵の中でも、これがもっとも誤解されやすい。ときには故意に誤用されることもあるほどだ。だからこそ、的確に理解する必要がある。問題は器の部分ではなく、もちろん、妻と子どもに関してエピクテトスが述べたことだ。もし、器の話だけだったら、モノに執着するなという、おそらく二世紀の消費主義に対する警告だととらえられたことだろう。
…エピクテトスがここで伝えようとしているのは愛する者に対する冷たい無関心ではなく、その反対だということだ。すなわち、愛する者たちがどれほど大切か、そして、それはその者たちがすぐにいなくなってしまうかもしれないからだということをつねに思い出すべきだ、とエピクテトスは述べている。近しい人を亡くした経験がある人は、その意味がわかるだろう。わたしたちは、永遠の都ローマで凱旋式に参加するローマ帝国の将軍たちのように人生を過ごすといいかもしれない。耳元で誰かにつねに囁いてもらうのである。「メメント・ホモ(汝、ただの人間であることを忘れるな)」と。

 

3.運命次第

「行動を起こそうとするときは、どうなるかを頭のなかで予行演習してみるといい。浴場へ出かけるなら、浴場で通常行われることを思い浮かべるのだ。人々から水をかけられ、押され、怒鳴られ、服を盗まれるだろう。最初に次のように言っておけば、より落ち着いて行動できる。『わたしは入浴したい。けれど、同時に、わたしの意思が自然に従うようにしたい』と(これは社会生活に理性を持ち込むという意味である)。どんなときにもそれを実行するのだ。そうすれば、入浴のときにいやな思いをしても、こう考えることができる。『これはわたしが意図したことではない。それにわたしは自分の意思が自然に従うようにするつもりだった。悪いことが起こるたびに心が折れてしまうようでは、それは不可能だ』」

わたしは「悪いことが起こるたびに心が折れてしまうようでは、それは不可能だ」というくだりが好きだ。折れやすいことを自分に許しているために、小さな問題にも耐えられず、今にも折れてしまいそうな人たちのイメージが浮かぶ。彼らはつねにすべてが当然うまくいき、悪いことは(悪いことが起こるにふさわしい)ほかの人にしか起こらないと考えている。だが、ストア主義者として、わたしたちは運命次第という考え方を身につけるべきだ。そして、マントラのように唱えるのである。もし運命が許してくれるなら、と。

エピクテトスが単純状況から始めていることに目を向けてほしい。彼は浴場へ行き、入浴を楽しみたいと思っている。映画館にはマナーをわきまえない人たちがいて、もう一度メッセージを確認しなければいけないと携帯の画面を光らせるが、そういう人たちに邪魔されずに映画を観たい、とわたしたちが思うのと同じだろう。もちろん、これも私の経験したことだ。以前はこうしたことがあると、わたしはひどく腹を立て、大声で文句を言ったが、もちろんなんの解決にもならなかった。最近は、ストア哲学のふたつのテクニックを取り入れている。ひとつめは、もちろん、コントロールできること、できなことの二分法である。映画館に行くのはわたしがコントロールできることだ(家で違う映画を観てもいいし、まったく別のことをしてもいいのだから)。また、他者の行動に対するわたしの反応もコントロールできる。他者の行動はコントロールできないが、影響を与えることはできる。なぜその行為が配慮に欠けるのかを丁寧に説明してもいいし、映画館の経営陣のところへ行き、穏やかに、丁寧に不満を伝えてもいい。入場料を払った顧客に気持ちの良い体験を提供し、足繫くかよってもらうようにするのは経営陣の責任だからだ。

ふたつめのテクニックは、運命次第という考え方を正しく理解して、付け加えることである。エピクテトスは、無礼な人々の振る舞いを黙って受け入れるように、とは言っていない。そうではなくて、心のなかで目標を設定しても願った通りにいかないこともあるのを忘れないように、と助言しているのだ。願った通りにいくと思い込んでいると、わたしたちの選択が、わたしたち自身を不幸にしてしまうため、状況はさらに悪くなる。

 

4.今ここで美徳をいかに用いるべきか

「問題にぶつかったときは、自分が持つ資質を思い出して、それに対処するといい。見目麗しい男性や女性を見ると、それに抗おうとする自制心の力を見出すことだろう。痛みを感じたら我慢する力を、侮辱されたら忍耐の力を思い出すだろう。そうするうちに、どんな心像にも負けない徳の力を見出すことができるという自信が持てるようになる」

この一節はストア哲学者による言明のなかでも、もっとも力を与えてくれるものだと思う。エピクテトスは元奴隷であり、骨折させられたために脚を引きずっていた。その彼がすべての機会とすべての困難に徳を用いることによって、より良い人間になるよう助言しているのである。生きていくうえでぶつかる課題は、自己を成長させるための絶好の機会だというストア哲学の考え方を用いて、誘惑や難しい状況には徳を用いて対処しようと勧めていることに留意してほしい。

 

5.立ち止まり深呼吸をする

「覚えておきたまえ。殴られたり、侮辱されたりしたから傷つくのではなく、傷ついたと思うから傷つくのである。誰かに挑発されて腹を立てるときは、きみの気持ちがそれに加担しているのだ。だから心像に対して衝動的に反応しないことが重要なのである。反応する前に一呼吸おけば、自分を制するのはより簡単になる」

…問題になりそうな状況に即座に、直感的に反応したいという衝動に抗わなければならない。立ち止まり、深呼吸をし、外を少し歩いて、それからようやく、できるだけ冷めた頭で(平静にという意味であって配慮がないということではない)問題について考える。簡単に思えるかもしれないが、うまく実践するのは難しい。それでも、とっても大事なことだ。これを実践し始めると、物事への対処が劇的に変わり、その変化を見た人々からも前向きなフィードバックがもらえるだろう。わたしは、エピクテトスの助言に従って問題にうまく対処し、その結果、気持ちが明るくなったという経験を数えきれないほどしている。

 

6.他人化

「わたしたちは共通の体験を思い起こすことによって、自然の意思を理解するようになる。友人が杯を割れば、すぐに『運が悪かっただけだ』と言う。だが、その言葉は、自分の杯が割られても同じように寛大に受け入れなければ、筋が通らない。さらに重大な事態を考えてみよう。誰かの妻か子どもが死ぬと、わたしたちは『それが人生だ』と言う。だが、わたしたち自身の家族が死ねば、すぐに自分のことを憐れむ。ほかの人が同じように家族を亡くして悲しんでいるときに、どう接するべきかを覚えておくとよい」

これを実践するのはすばらしいことだ。自分と同じことがほかの人にも起こったとき、わたしたちはそれを自分に起こったときとは同じようにとらえていないことを、エピクテトスは思い出させようとしている。他者に起こった問題については、災難でさえも、わたしたちは自分のときよりもずっと冷静でいられる。

…事故、怪我、病気、死は避けることができないし、そういったことが起こって取り乱すのも理解できるが(杯が割れたことに比べて、伴侶を失った悲しみの大きさを考えれば)、それがものの道理だと考えることで安らぎを得られる。宇宙は誰かひとりを、少なくともわたしたちのうち誰かひとりを特別に扱うことはないのである。

 

7.話は上手に手短に

「多くの場合、話さないほうがいい。話すのは必要なときだけでいい。それも手短に。話すよう求められたら話すといい。だが、剣闘、馬、スポーツ、飲食といったありふれたことをは話さない方がいい。とりわけ噂話は、称賛であっても、 非難であっても、比較であっても、してはいけない」

よく考えてみれば、エピクテトスが何を話してはいけないといっているのかがわかってくる。わたしたちは、こんにち、剣闘について話すことはあまりないだろうが、有名なスポーツ選手、映画界や音楽界のスター、その他のセレブたちの噂話をよくする(セレブとは、ミュージカル「シカゴ」のなかで説明されていた通り、「有名であるがゆえに有名人である人たちのことだ」)。なぜそうした話をしてはいけない、あるいはできるだけ控えた方がいいのだろうか。それは中身がないからである。

…エピクテトスの主張は、わたしたちたちは何が最善の行為かを決め、それに合わせた振る舞いができるというストア哲学の原則にもとづいている。最初は、難しく、無理なことのように思えるが、習慣になってしまえば、自分の振る舞いを変えることはどんどん簡単になり、ついには、なぜ前はあんなことができたのかと思うようにさえなる。

 

8.相手をよく選ぶ

「哲学者ではない者と交わるのをやめよ。交わなければいけないのであれば、相手に合わせてみずからを貶めないよう気をつけるといい。なぜなら、汚れた者の友人もまた汚れてしまうことから逃れられないからだ。たとえ、もとはどれだけ高潔であったとしても」

…「哲学者」という言葉でエピクテトスが意味したのは学者のことではなく(学者の大半は、言われなくても、そんなに頻繁に交わりたい相手ではない)、徳に従い、人間性を磨きたいと思っている人々のことだ。古代の人々は、誰もがそうした意味での哲学者になろうと努力するべきだと考えた。それは、自分自身と、共同体における生活と幸せをより良いものにするために理性を用いるということである。現代に生きるわたしたちもそのように考えたらいいのではないだろうか。また、人生は短く、誘惑や無益なものはどこに潜んでいるかがわからない。そのため、自分の行動やつきあう相手にはつねに注意を払う必要があるという、一般的な助言でもある。

 

9.侮辱されたらユーモアで返す

「誰かに悪口を言われているのがわかったら、噂話に対して自己弁護をするのではなく、こう言うといい。『なるほど、彼が知っているのはそれだけか。知っていればもっと話したはずだから』」

これはエピクテトス一流のユーモアを添えた深い知恵を示す例である。他人から侮辱されたと言って憤るのではなく(他人が話すことはコントロールできないものを思い出してほしい)、自分を笑いの種にするのだ。気分が少し腫れるし、中傷者に恥をかかせることができる。少なくとも攻撃はやめさせられるあろう。ビル・アーヴァインはこの助言を芸術の域に高めている。ビルはあるとき、廊下で学科の同僚に呼び止められた。同僚は言った。

「ぼくの次の論文で、きみの論文の一部を引用しようかと考えているんだ」そう言われて、ビルは喜んだ。同僚のひとりが自分の研究を認めてくれていると思ったからである(実は、そういうことはめったに起こらない。とくに哲学の分野では)。だが、その言葉には続きがあった。「だけど、きみの主張が見当違いのものなのか、紛れもなく有害なものか判断がつかなくい」さて、こう言われたら、たいていの人は腹を立てるだろう。これは悪意のない「所見」なのか(学者は社会的見識に欠けているという評判があるが、それも的外れではないだろう)、それとも意図的なこきおろしなのだろうか、と。だが、ビルは自己弁護のために、自分の論文が有害でも見当違いでもないという、詳細な、そしておそらく無駄な説明をしようとはしなかった。そのかわり、ストア主義者的な対応をした。深呼吸をし、にっこり笑ってこう言ったのである。「そうだね。ぼくのほかの論文を読んでくれていなくてよかったよ。もし読んでいたら、ぼくがどれほど見当違いで、有害かがわかっただろうから」

 

10.自分自身についてあまり話さない

「会話においては、自分の行為や冒険について、必要以上に長く話さないほうがいい。自慢話は楽しいかもしれないが、相手がそれを聞いて楽しいと感じるとはかぎらない」

他人の最新のスライドショーなどを見たいと思わないのと同じように(たとえば最新のiPhoneの小さな写真であっても)、他人が自己を延々と語るのを心の底から聞きたいと思う人はいない。自分は自分が思っているほど興味深い人間ではないと考えておけば間違いないだろう。わたし(とエピクテトス)の言うことを信じてほしい。他者との交流の基本的事実をよく理解し、それをできるだけ考慮するようになれば、友人や知り合いをより幸せにできる。

 

11.判断を交えずに話す

「誰かが急いで入浴しているなら、入浴の仕方が悪いと言わず、急いでいると言いなさい。誰かがワインをたくさん飲むなら、飲み方が悪いと言わず、たくさん飲んでいると言いなさい。理由も知らないのに、どうして悪い行動だとわかるのだろうか。そうすれば、あるものをはっきりととらえながら、別のものを認めるようなことにはならないだろう」

…あなたが、あるいはほかの誰かが、同僚から当たり散らされたとする。「適切」だと思われる言葉を投げ返す(あるいは自分自身につぶやく)のではなく、自問してみよう。自分は誰かに当たったことはなかったか? もちろん、あるだろう。そのとき、相手をごみのように扱って楽しかっただろうか。不本意ながらそんなことをしたのは、何かはっきりしない、深い理由があったのだろうか。そのとき、爆発させた怒りを、相手にどうとらえてほしかったのか。どう反応してほしかったのだろうか。さて、今度は、立場が反対になったと想像してみてほしい。苛立つ同僚を前に、エピクテトスの助言を実践できるだろうか。

少し立ち止まり、想像してみよう。自分やほかの人について、判断を急ぐのをやめ、事実を客観的に、より共感を持ってみることができたら、世界はどれだけ良くなるだろうか。

 

12.一日を振り返る

「その日の行いについて考えてみるまでは、柔らかい瞼が閉じるのを許さぬがいい。何を誤ったのか。何を為し、何を為さったのか。そこから始め、自分の行いを振り返り、卑劣な行為に対しては自らを諫め、善い行いに対しては喜ぶといい」

最後の訓練は『提要』ではなく、『語録』からのものだ(すでに紹介したものである)。とても大事なことであり、わたし自身の大きな助けになったので、ここに含めることにした。セネカも同じようなことを助言している。セネカが勧めるのは、夜、ベッドに入る前にやることだ。ベッドに入ると疲れが襲ってきて、集中力を失ってしまうからだと言う。

目的は、重要な出来事、とくに倫理的バランスの問題を含む出来事についてよく考えることだ。同僚を傷つけてしまったのではないか。パートナーを不当に扱わなかったか。学生に対して寛容でいられたか。友人の助けになれたか。わたしは、そうしたことひとつひとつを哲学日記に二行ほどでまとめ、できる限り公平な所感を書き加える。それは自分の行動に倫理面から成績をつけるようなものであり、経験から学んだことを忘れずにおくためのものでもある。

 

 

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元奴隷で貧しい人物が、その後2,000年以上に渡って読み継がれることになる哲学の大きな柱を担うことになるとは。

この人物が哲学史に残した功績と、彼が置かれていた環境に思いを馳せると、ただただ頭が下がります。

この実践的な哲学についてもっと学び、生活に当てはめていきたいと思います。

まずは、自分の人生においてコントロールできるものと、できないものを選別すること。

 

本書の P. 39 には、カート・ヴォネガットの名著『スローターハウス5』についての言及がある。

 

そこでは、「平静の祈り」と呼ばれる、ある祈りの言葉が紹介される。

 

主よ

変えられないものを受け入れる心の平静と

変えられるものを変える勇気と

そのふたつを見分ける知恵をわたしに与えたまえ

 

この祈りに接し、主人公は一つの啓示を得る。

それはつまり、我々は過去は変えられず、影響を及ぼすことができるのは今このときだけだと認める、ということ。

 

コントロールできるものと、できないものを、分けること。

コントロールできるものに今、集中するということ。

そして時に、運命によっては、物事は望んでいた方向に進まないこともあるということ。

 

 

この考え方を知っているだけでいろいろなことが楽になると思います。

迷いを断ちたい方、日常の思い煩いに悩まれている方、ぜひ一読をオススメします。