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※この記事では原作小説と映画三部作の重要な内容に触れます
私が小説『ゴッドファーザー』に出会ったのは、ロンドンで大学生活を送っていた頃でした。
映画ではなく、先にマリオ・プーゾの原作を英語で読みました。
私は以前から、理由をうまく説明できないほどイタリア文化に惹かれていました。
私は Fabio という名前がついていますが、私の場合、その由来はイタリアではなくブラジルにあります。日本人の両親のもとに生まれ、ラテン文化の国々やフランスで暮らした経験はあっても、当時の私はイタリアに住んだこともなければ、身近に多くのイタリア人がいたわけでもありません。
それでも、イタリアには、自分の知らない何かがあるように感じていました。
マリオ・プーゾの分厚い小説は、その世界へ続く入口になりました。
映画を見る前だったので、登場人物の顔も、コルレオーネ家の屋敷も、ニューヨークの街も、すべて自分の頭の中で作りました。
交渉の場に現れる奇妙な一族。荒くれた男たちがパスタを作る場面。文章の中に何度も出てきたように記憶している sigh、ため息をつくという言葉。
筋書きだけでは説明できない断片が、今も残っています。
先に映画を見ていたら、これらの記憶はマーロン・ブランドやアル・パチーノの顔と結びついていたでしょう。けれど、私が最初に入った『ゴッドファーザー』の世界には、まだ俳優の顔がありませんでした。
それは、私自身が想像した世界でした。
ここで、この先の話を追いやすくするために、物語について一つだけ説明しておきます。
『ゴッドファーザー』は、ニューヨークの犯罪組織コルレオーネ家を率いる父ヴィトーと、もともとは家業から距離を置いていた三男マイケルの物語です。
麻薬取引をめぐる対立のなかで父が襲撃されたことをきっかけに、マイケルは家族を守るため法の外の世界へ踏み込み、やがて父の後継者になっていきます。恋人のケイは、その世界の外側からコルレオーネ家へ入っていく人物です。
何でもできる男ではなかった
原作を読んでいて最初に驚いたのは、ドン・ヴィトー・コルレオーネが「何でもできる男」として描かれていなかったことでした。
小説の冒頭、葬儀屋のアメリゴ・ボナセーラがドンを訪ねてきます。
娘をひどく傷つけた若者たちに、裁判所は彼が望んだ罰を与えませんでした。アメリカの法律を信じてきた男が、初めて法の外にある力へ助けを求めます。
ボナセーラが暗に求めたのは、加害者たちの死でした。
しかしヴィトーは応じません。
“That I cannot do.” それはできない。
娘は生きている。それなら、相手を殺すことは釣り合いの取れた正義ではない、と彼は考えます。[4]
私は少し意外に思いました。
強大な犯罪組織のボスなのだから、頼まれれば何でもできる。そんな人物を想像して読み始めていたからです。
ところがヴィトーには、できることと、できないことがありました。
もう一つ、忘れられない場面があります。
ヴィトーの古い友人で、初代コンシリエーレ、つまり一族の相談役だったジェンコが病床で死を迎えようとしています。
彼はヴィトーに、自分を助けてほしいと懇願します。
人を動かし、金を動かし、敵を退けてきたゴッドファーザーなら、死さえも遠ざけてくれるのではないか。
けれど、ヴィトーにもそれはできません。
死を前にした懇願と、ヴィトーに無理なお願いをしてしまったことに対する、ジェンコに残る恥じらいの表情を、私は強く覚えています。[4]
作者プーゾは、ヴィトーを悪の化身として登場させませんでした。
何でもできる神としても描きませんでした。
自分なりの秩序を持ち、その秩序の中で判断する人間として描いたのです。
善人ではない。しかし、狂乱した凶漢でもない。
私は、その意外性に引き込まれました。
映画より先に原作を読んだ幸福
その後、映画を見ました。
もちろん圧倒されました。
映像、音楽、衣装、光と影、俳優たちの存在感。
これほどスタイリッシュな作品があるのかと思いました。
私には、コルレオーネ家が一種の「マフィア貴族」のようにも見えました。
家名があり、継承があり、婚姻があり、儀礼があり、忠誠と同盟がある。
犯罪者の集団でありながら、古い王朝のような格式をまとっている。
その矛盾が、この作品独特の美しさを作っているように感じたのです。
一方で、原作を先に読んだからこそ、映画との違いにも敏感になりました。
例えば、トム・ヘイゲンです。
トムは子どもの頃、長男のソニーを通してヴィトーに迎え入れられた家族の一員で、ジェンコの後を継いでコンシリエーレ(一家の相談役)になります。
原作のトムには、コルレオーネ家全体を静かに見渡しているような重さがありました。
ヴィトーの長男ソニーがルーシー・マンシーニと浮気をしている場面で、彼を呼びに行くトムの姿に、私は長男の軽率さだけではなく、この家族の将来への不安を読みました。
ソニーの問題は、一人の男の浮気だけではありません。
やがてこの家族を率いるかもしれない人物が、自分の衝動を抑えられないということでもあります。
映画で同じ場面を見た時、演じたロバート・デュヴァルのトムは少し笑っていました。男同士の事情を察して、苦笑しているようにも見えました。
デュヴァルの演技が悪い、という話ではありません。
私の中に、すでに別のトムがいたのです。
でも、実際に原作を読んでみるとソニーを咎めるようなトムの表情などは書かれておらず、押し殺した声でこういったのみ。
「ソニー、いるかい?」
「ドンのオフィスに来てくれって。今すぐにだ」
書かれている言葉を通して、私が後から意味を込めてるんですよね。
映画化によって人物に顔と声が与えられると、自分が原作に何を読み込んでいたのかが初めて分かることがあります。
原作と映画のどちらが正しい、という話でもありません。私は、二つのトムの間を行き来できるようになりました。
それが、映画より先に原作を読んだ一つの幸福だったのだと思います。
売れる本を書くという決断
『ゴッドファーザー』は、純粋な芸術的衝動だけから生まれた作品ではありません。
プーゾ本人は、後に驚くほど率直に語っています。
“I wrote it to make money.”
お金のために書いた。[1]
1955 年に刊行した最初の小説『The Dark Arena』で、プーゾの手元に残ったのは 3,500 ドルでした。十年後の『The Fortunate Pilgrim』は高い評価を受けましたが、得た金額は 3,000 ドル。
45 歳になった時、彼には親族、銀行、金融会社などへの約2万ドルの借金がありました。
ある編集者は、『The Fortunate Pilgrim』に登場した犯罪組織の要素をもっと前面に出していれば、売れたかもしれない、と示唆します。
そこでプーゾは、売れる本を書くことを決めました。
最初に作った10ページの構想は拒絶されます。
それでも別の縁から出版社 G. P. Putnam’s Sonsの編集者と会い、5,000 ドルの前金を得て、『ゴッドファーザー』を書き始めました。[1]
結果は、誰もが知る通りです。
1969 年に刊行された『ゴッドファーザー』は、ニューヨーク・タイムズのベストセラーリストに67週間入り、最初の2年間だけで 900 万部を売りました。[3]
これだけを聞けば、文学を諦めて市場へ迎合した作家の話に見えるかもしれません。
しかし、私はそうは思いません。
売れるために書かれた小説が、なぜ一時的なベストセラーで終わらず、半世紀以上たった今も読み継がれているのか。
ここから先では、プーゾ自身の言葉と残された資料を手がかりに、その理由を考えてみます。
そして、映画ではほとんど消えてしまった奇妙な一族ボッキッキオ家、コッポラが撮影中も使い続けた 784ページの制作ノート、そして、すべての暴力の果てに置かれた妻の祈りまでたどります。
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初出:note、2026年8月20日(有料記事・無料公開部分のみ収録)。Fabio Caipirinha の恒久アーカイブとして収録(本サイト掲載:2026年10月15日)。原文:https://note.com/proper_clam757/n/n0dc4251aacb1