やっとこさ、観てきましたー!
クリストファー・ノーラン監督の『#オデュッセイア』をIMAXで。すごい映画でした。その、すごい、って何が? を言葉にしてみたいです。
まずIMAX
これまでもIMAX劇場で観たことはあります。ただ今回はその奥行きというか、作品の中にいるような没入感レベルが高い。セイレーンの音響も体の中に響いてくるし、嵐の水飛沫なんかもこちらも水滴を感じるほど。やっぱり劇場で見るべき一本。でも、映像美で勝負する『アバター』のような彩りの鮮やかさで圧倒してくる体験とは少し違いました。今回、私が感銘を受けたのは、物語そのものの力でした。IMAXはそこをうまく引き出してたのかなと。
それにしても、何千年も前の物語が、これほどまでに人間の本質を考えさせる。戦争、功名心、食欲、性欲、そして愛する人のもとへ帰りたいという願い。そうした複雑でしばしば矛盾する人間の欲望が、オデュッセウスという一人の男に凝縮されているように感じました。マット・デイモンがよく頑張っていた。もうジェイソン・ボーンの若々しさはないけど、ソニー・ヴァッカロのしたたかさが増した感じ。
アン・ハサウェイはいつも通りどこの国の人を演じていても美しいし、シャーリーズ・セロンは海の女神・カリプソそのまま、神々しさすら感じさせます。ノーラン監督は誰かを使いたいと思ったらキャスティングも自由なんだろうなぁと。そりゃあ、すごい作品になるわと思ったり。
神への供物を、殺戮の罠にする
映画を観終わってから今も頭を離れないのが、トロイアの木馬です。トロイア戦争で、ギリシャ軍は長年攻め落とせなかった都市を、オデュッセウスの知略によって陥落させます。有名ですね。巨大な木馬の内部に兵士を隠し、撤退したように見せかける。トロイアの人々が木馬を城内へ運び込むと、夜になって木馬から兵士たちが現れ、都市を滅ぼす。
よく知られた話ですが、あらためて私が恐ろしいなと思ったのは、木馬が神への供物として扱われたことです。
ホメロスの『オデュッセイア』第8歌にも、その描写があります。後世のウェルギリウスの『アエネーイス』第2巻では、ギリシャ軍が木馬を女神アテナへの奉納物だと偽る策略が、さらに詳しく語られています。
神への敬意を利用して、相手を殺す。
それは、敵の城壁を破るだけの作戦ではありません。人間が互いを信頼するための約束を、戦争の道具に変えてしまった瞬間でもあります。
敵が剣を向けてきたら、誰でも身構えます。しかし、贈り物にまで兵士が隠れているとしたら、何を信じればよかったのでしょうか。
もちろん、オデュッセウスが人類で最初に戦争や裏切りを始めたわけではありません。それでも、あの木馬には、今日まで続く人間の争いの原型があるように思えました。
自分が破壊した神に、祈る
もう一つ、忘れられない場面があります。
トロイアの神殿で、ギリシャ兵がアテナ像の首を切り落とす場面です。
アテナは知恵と戦いの女神であり、オデュッセウスを守る神でもあります。その像が、自分の率いた軍勢によって破壊されてしまう。
ここで思い出されるのが、妻ペネロペから贈られた、アテナをかたどったブローチです。彼はそれを大切に持ち続けています。妻との約束を思い出させる品であり、女神の加護を象徴するものでもあります。自分を守ってくれるはずの神の像を自ら破壊しておきながら、なおその神に助けを求める。
オデュッセウスは、もともと神々に抗おうとするほどの自信家です。しかし、映画が進むにつれて、彼の苦しみは神罰への恐怖だけではないように思えてきます。
彼は、自分が何をしてしまったのか、理解してしまったのだと思います。自らの知略によって都市を滅ぼし、人々を殺し、自らも同じように信じる神聖なものまで破壊してしまった。その惨事を、もはや忘れることができない。優れた知性を持つからこそ、自分の罪の重さを理解できてしまうのです。
男たちは、何を欲していたのか
私も書いてきたとおり、『オデュッセイア』の英訳者の一人である古典学者エミリー・ウィルソンは、今回の映画を厳しく批評しています。
なかでも印象的だったのが、映画にはセックスの場面がはっきりと存在せず、食事もひどくまずそうに見えるという指摘です。食事については、私もまったく同感でした(笑)。あの長細い刀削麺みたいな肉片スープ、なんか兵士たちも無理矢理大食いしてて。あまり美味しそうじゃなかった。
ただ、私は今回の映画を観て、人間の欲望について別のことを考えました。食べたい。愛したい。名誉を得たい。生き延びたい。それらは人間にとって自然な欲求です。問題は、自分の欲望を満たすために、他者をどこまで犠牲にしてよいと考えるか。
戦争に勝つために敵を欺く。名誉のために人を殺す。自分が生き延びるために他者を見捨てる。そうした行為が、英雄の名のもとに正当化されてきました。我々はそれを歴史と呼んでるわけです。
戦争に勝ち、敵を征服して、名を残す。
この、歴史を通じて、男たちはそれを誇りとしてきた。
しかし、その誇りによって、どれほど多くの人々が家族や故郷を奪われたのでしょうか。オデュッセウスとその部下に、そうした男たちの罪を見た気がしました。
帰ることのできる男
『オデュッセイア』は、長い戦争を終えた男が、故郷イタケーへ帰ろうとする物語です。
妻に会いたい。息子に会いたい。自分の家に帰りたい。その願いは、よくわかります。しかし、オデュッセウスには帰る家があっても、彼が滅ぼしたトロイアの人々には、もうありません。一緒に戦った部下や大勢の兵士たちも、死んでいます。行けるのは冥府だけ。彼らもまた、家族のもとへ帰りたかったはずです。実際にそんなシーンもありましたね。
自分は故郷へ帰りたいと願いながら、他者から帰る場所を奪ってしまった。その矛盾を、オデュッセウスはどう受け止めたのだろう。自分の罪を認め、悔いたとしても、殺された人々は戻りません。自らの死をもって償ったところで、失われた人生が回復するわけでもない。
彼は戦争に勝つための知恵を持っていました。でもその知恵が引き起こした惨事を元に戻す方法は、持っていなかった。人間は、戦い、欲望に駆られ、他者を傷つけ、取り返しのつかない過ちを犯す。古代の人々は、すでにそうした人間の姿を物語にしていました。
そして何千年もたった今、私たちは巨大なスクリーンを通して、再び同じ問題と向き合っています。英雄は、決して無垢な人間ではない。勝利は、必ずしも正義ではない。
オデュッセウスは、長い旅の末に故郷へ帰ります。
しかし、他者から故郷を奪った自分自身からは、どこへ行っても逃れられない。これもまた一つこの普遍的な物語から得る教訓なのかもしれません。
P. S. 良いことだけでなく、フェアに苦言も少々。
正直、最後のところは少しノーラン味が出てて冗長な印象も。マット・デイモンと海の冒険が続くならもっと見ててもよかったけど、宮殿に戻ってからもいろいろと策略があってそこが長く感じました。もちろん原作にもある大事なシーンなので必要なんだけど、尺を使うなら省略されてた冒険譚をもっとみたかったかも。ファンタジックな怪物たちの後に急に醜悪な人間の欲望にまみれた策略を見せられるので、本当に怖いのは結局、人なんだよ、ということなのかもしれませんが、あんなに長尺とは予想しておらず。まあ、それも乗り越えての「帰還」、なのかもしれません。◾️
出典・参考資料
ホメロス『オデュッセイア』第8歌 — トロイアの木馬
ウェルギリウス『アエネーイス』第2巻 — 木馬を供物と偽る策略
Emily Wilson, An Uncomplicated Man — 『London Review of Books』掲載の映画評への案
Ars Technica:ノーラン版『オデュッセイア』批評 — アテナ像と映画の脚色について
Originally published on note on 2026-09-20 12:26:51 JST.