最近、David Perell の、オーシャン・ヴオン(Ocean Vuong) へのインタビューを見ていて、またいろいろ学びました。
やはり オーシャン はただのぽっと出の作家ではない。
(こちらで取り上げたことがあります)
書くことについて語っているのだけれど、いわゆる「文章術」の話ではないんですよね。もっと根っこの話。
どうすれば読みやすい文章になるか、とか、どうすれば人を引きつけられるか、とか、そういう話ではなくて。
書くとはそもそも何なのか、という話でした。
彼は、作家は「人類がまだ出会ったことのない一文」を書くべきだといいます。
たとえば彼は今回、夕日の書き方の話をしていました。
ただ「赤い夕日」と書くことはもちろんできる。
でもそれでは、世界は少しも新しくならない。
そこで彼が引くのが、イサーク・バーベリ の一文。
ロシア語で書いた作家で、オーシャン も「大好きな短編作家の一人」として名前を挙げています。
バーベリーは、1920年代初頭のソ連・ポーランド戦争を背景にした『Red Cavalry(騎兵隊)』の一節として、夕日の比喩を書いています。
“the low red sun rolls across the hills as if beheaded”)
(低く赤い太陽が、首をはねられたように丘を転がっていく。
この比喩が入った瞬間、夕日はただの風景ではなくなる。そこに暴力の気配や時代の影が差し込む。
文学とは、見慣れたものを見慣れたままで終わらせないことなんですよね。
オーシャン はまた、書くことの80パーセントは「見ること」と「考えること」だと言っています。
最後に来るのが文章なんだと。
これも大事な順番ですよね。
私たちはつい、机に向かっていない時間を、書いていない時間だと考えてしまう。
でも実際には、歩きながら何かに引っかかることや、うまく言葉にならない違和感を抱えていることの方が、よほど書くことに近いこともある。
「クリシェ」についての話もよかったです。
(=「決まり文句」や「常套句」を意味し、使い古されて目新しさや独創性が失われた表現やシチュエーションを指す言葉)
悪いのは題材ではない。
見方が古びているだけだ、と彼は言います。
バラを花嫁の髪に挿せば、よくある像になる。
でも同じバラをマイク・タイソンの耳に挿したら、急に別のものになる。
新しさとは、珍しい題材を探すことではなく、既にあるものを別の場所に置き直すことだといいます。
今は、整った文章を作る道具がいくらでもある。
だからこそ、人が書く意味はむしろはっきりしてきた気がします。
それは、情報をきれいに並べることではない。
オーシャンは強調します。
書くこととは、
世界を、自分の目で、もう一度見なおすことだ。
AI 時代に守るべきなのは、たぶん「個性」みたいな曖昧な言葉ではない。
まず、自分の視線なのだと思います。
どこで立ち止まるか。
何に違和感を持つか。
何を見てしまうか。
<
p id=”89ba7825-850f-4c5c-9374-141dc7e09460″>その偏りが、その人の守るべき文章になる。■