創作術、執筆術の本はこれまでにも散々読んできたが、恥ずかしながら、日本文学を代表する作家、三島由紀夫に『小説読本』と題した一作があったことは知らなかった。

 

 三島といえば天賦の才をもって書く作家というイメージがあって、読者や作家志望者に向けて作品を生み出すことの苦労など、簡単に披露するようなタイプには見えない。

 しかしそれがどうしてどうして、読んでみるとアドバイスは細かく、実に味わい深い。

 

 感銘を受けたので、一部抜粋し、ご紹介する。

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『小説読本』三島由紀夫(中央公論新社)

P. 152 わが創作方法
 結論から先に言うと、私の方法的努力は、最終的には、潜在意識の活動をもっとも敏活にするためのものである。私の潜在意識は、無限定無形式の状態では、どうしてもいきいきと動き出さない。ぐにゃぐにゃした混沌の中で、却って潜在意識が活潑に動き出す作家もある。私はそういう型の作家ではない。何かで縛り、方向と目的をきっちりと決め、そこにいたる道筋を精密に決めてからではなくては、心が自由にならないのである。
 私がいつかきちんとスケジュールを組んだメキシコ旅行をすませてかえってきたとき、メキシコ通の友人が、お前の見てきたのはメキシコではないと言った。メキシコは、行き当たりばったりの旅行者、時間かまわぬ気楽な旅人の目にしか、その真の姿をあらわさないと云うのである。なるほどそういうメキシコもあろう。しかし私の見たメキシコもメキシコに他ならない。友人は更に、お前の旅行などはお役人のする旅行で、いやしくも芸術家のする旅行ではないとからかったが、私は必ずしもそう思わない。
ああいう国では、ホテルや飛行機やバスの予約を完全にコンファームしておかないと、思わぬ心労のもとを作りかねない。私は自分の夢想を純粋な形で発揮させるために、どうしてもそういう雑事や、思いがけぬ煩いや、困惑や、にっちもさっちも行かぬ事態や、予定変更などにわずらわされたくないのである。そしてそういう煩労は、旅行の辷り出す前に、できるかぎり完全に解決しておきたいのである。そうしておけば、思いがけない喜びには会わないかもしれないが、思いがけない蹉跌にも会わないですむ可能性が多い。そして旅では、誰も知るように、思いがけない喜びというものは、思いがけない蹉跌に比べると、ほぼ百分の一、千分の一ぐらいの比率でしか、存在しないものである。
 こういう旅行は、強いて名付ければ、古典主義的旅行法とでも呼ぶべきだろう。そして古典主義はそのまま、方法論の重視と、ジャンルの峻別につながっている。私は自分の本質が古典主義者だとは必ずしも思わないが、方法論上のあきらかな古典主義者である。そしてこういう旅行法では、一年の旅と三日の旅とは、程度の差だけの問題ではなく、全く方法上の別種のジャンルに属する。長編小説と短編小説の差が、ただ長さの差だけではありえないように。
 小説というものは、芸術という資格の一等あやしげな、もっとも自由で、雑然たる文学形式だということになっている。そしてそれは、生成発展するのが構成上の特長を成すところの、もっともダイナミックな文学上のジャンルだということになっている。その「自由だ」という前提が、各種の問題を孕んでいるのだが、いやしくも芸術が、制作者と享受者との間の何らかの約束事なしに成立しえないものならば、(これは芸術に限らず、スポーツでもゲームでも、そうである)、小説はこれについて既定の約束事をひとつももたず、その都度、作者の個性に応じて、約束事が作り出され、そしてもっとも重要な、特色ある点は、制作者も享受者もあたかも約束事などはじめからないふりをするという約束があることであろう。

 

P. 156
 話を少し具体的にしよう。
 私が一つの長編小説を書くときの創作方法は、大略次のようである。
 第一に主題を発見すること。
小説が「めずらしい材料」を料理して出来上ると思っている人は世間にはまたずいぶん多く、中には或る題材を提供してくれて、いつまでたっても私がそれを小説化しないのに腹を立てている人もいる。
材料はどこにもころがっているのである。ただ、或る時点における私の内的な欲求に、ぴったり合う材料というものはなかなかみつからない。私たち小説家は、懐中電灯を手にして暗闇の道を探し歩いている人のようなものだ。ある時、路上のビール瓶のかけらが、懐中電灯の光を受けて強くきらめく。そのとき私は、材料と共に主題を発見したのである。

 

P. 158
 第二に環境(ミリユウ)を研究すること。
 さあ、私はこの材料乃至主題で小説を書くことに決めた。
 次の作業は、一度抽象化された主題を、今度はふたたび、できるだけ精密な具体性の中に涵(ひた)す作業である。これはかなり低級な作業で、できる限り人の話をきき、足を使い、どんな小さな具体性をも見のがさぬように採録する。
 ニュース種の小説であれば、裁判記録や警察の調書までしらべ上げ、全く架空の物語であっても、主要な登場人物に具体性を与えるために、その職業の細目、生活の細目を、念入りにしらべ上げる。もしその人物が会社員であれば、該当する会社にたのみ込み、一日オフィスの椅子に坐らせてもらったりする。
しかしこの段階で、私がもっとも力を入れるのは、風景や環境のスケッチである。われわれは日常生活では、自分の周囲の事物にそれほど綿密な注意を払わない。従って或る地方の人、或る職業人の話をいかに詳(つぶさ)にきいても、その生活感覚はつかめても、環境の、すでに彼自身にとって馴れっこになっている影響力は、具体的につかめない。
 小説がフィクショナルなのは正にこの点であって、(自然主義小説もこの点では全くフィクショナルなのだが)、実際の生活人にあっては鈍麻している環境(ミリユウ)の描写を精密にして、読者がその環境描写を通じて、登場人物への感情移入ができるように、手助けしてやらなければならない。

 

P. 160
 第三に構成を立てること。
 これはかなり機械的な作業で、最初に細部にいたるまで構成がきちんと決めることはありえず、しかも小説の制作の過程では、細部が、それまで眠っていた或る大きなものをめざめさせ、それ以降の構成の変更を迫ることが往々にして起こる。したがって、構成を最初に立てることは、一種の気休めに過ぎない。
 このころから、未だ書かれざる小説は、すでに何かツルツルした円球のような形を持って来ており、その入口や出口は、なかなか見つからない状態になる。
 それをむりに構成しようとする努力は、多くは徒労に終わり、大ざっぱに序破急を決め、大きな波形を想定しおく程度にしておいたほうがよい。私はしかし、どちらかというと演劇的な構成を愛するので、序開きから徐々に葛藤がはじまり、クライマックスにいたる構成は、大ていの私の小説に共通なものである。少年時代に、ラディゲの「ドルヂェル伯の舞踏会」から、クライマックスの極度の強め方を学んだ私には、平面的な展開を喜ばない癖が頑固に残っている。ラディゲのクライマックスの設定は、はなはだ建築的なものであり、私は最初の構成から、クライマックスについてだけは、たえず計算しつづけている。とにかくそれは高まらなければならない。最後には天井に手が届かなくてはならないのだ。そのためにはどこで膝を曲げ、どこで腰のバネを利かして飛び上がるか。

 

P. 162
 第四に、書き始めること。
 書きはじめるのと同時に、今までのすべての準備、すべての努力は一旦御破算になる。あれほど明確に掌につかんでいた筈の主題は、再びあいまいになり、主題は一旦身を隠し、すべての細部に地下水のようにしみ入っていく。最後に滝になってなだれ落ちるために。

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 いかがだろうか。

 創作術においても、ナルシストな美学も垣間見れるも、懇切丁寧に創作の苦悩を語る文豪に優しさを感じた。

 内容も実に具体的でためになる。おもしろい。

 

 作家にもその書き方に流派があって、最初に筋書きをきちんと決めてから書き出す「プロッター」と、地図を持たずコンパスだけを持って書きながら道筋を作る「パンツァー」、の二つがあるといわれる。

 

 三島は最初からきっちりと向かう方向を決めて書く作家だったようだ(もちろん書き出してからは、しっかりと道に迷うことも認めている)。

 作品群からもそのあたりを感じるところがあるかもしれない。

 

 実際、三島からはそのストイックな生き様からして冷徹なリアリストという印象を受ける。

 作家になる前は大蔵省の役人であったが、海外旅行の作法一つとっても几帳面に、最初からきちんと計画されたものを好んでいたことが分かる。

 興味深い。

 これは職業柄体得したものというよりは、生来の気質なのかもしれない。

 それも執筆方法にもその影響が出るほどの強いものに違いない。

 

 他の芸術のフォーマットと異なり、小説には書き手と読み手の間にあたかも約束事などははじめからないふりをするという「約束」があるという指摘も興味深い。

 これにしても作者の個性に応じた約束になるところが、「もっとも自由で、雑然たる」文学という芸術の形なのだと思う。

 

 同じ章の中で、三島はいつも、人間より風景に感動すると書いている。

 風景には何か肉体のようなものがあって、頑固に抽象化を拒否しているように思われる、と。

 「自然描写は実は退屈で、かなり時代おくれの技法であるが、私の小説ではいつも重要な部分を占めている」とし、物語の展開に行き詰ったときにいつも助けてくれるのは、「あの詳細なノオトに書きつけられた、文字による風景のスケッチである」と続ける。

 

 私が今回一番気に入ったのが、書きはじめることについて書かれた中のこの文章だ。

 

 「ここへ来てはもう方法論もクソもない。私は細部と格闘し、言葉と戦って、一行一行を進めるほかはない。」

 

 創作というのは、結局、ヘミングウェイのこの名台詞に帰結するのだろう。

 

There is nothing to writing. All you do is sit down at a typewriter and bleed.

 

 敬愛する東西の作家二人に、その創作術において通底するものがあるのを知ることができた。

 この学びは、今日一番の収穫だった。

 

 

毎日新聞:三島由紀夫 写真:毎日新聞)東京・南馬込の自宅でインタビューに応じる三島由紀夫=196812月 https://mainichi.jp/articles/20201120/org/00m/070/011000c 

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参考資料:

★『小説読本』

https://www.amazon.co.jp/%E5%B0%8F%E8%AA%AC%E8%AA%AD%E6%9C%AC-%E4%B8%AD%E5%85%AC%E6%96%87%E5%BA%AB-%E4%B8%89%E5%B3%B6-%E7%94%B1%E7%B4%80%E5%A4%AB/dp/4122063027/ref=asc_df_4122063027/?tag=jpgo-22&linkCode=df0&hvadid=296039675246&hvpos=&hvnetw=g&hvrand=3749094560499663194&hvpone=&hvptwo=&hvqmt=&hvdev=c&hvdvcmdl=&hvlocint=&hvlocphy=1028851&hvtargid=pla-526315147611&psc=1&th=1&psc=1

 

★初めて出会う・新 三島由紀夫

https://www.shinchosha.co.jp/shin-mishima/

 

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