1945年、東京・日本橋。
戦争で傷んだ白木屋百貨店の一室には、窓ガラスさえ残っていませんでした。

その十坪ほどの部屋で、井深大たちは壊れたラジオを修理し、短波放送を受信できるように改造していました。戦争が終わったばかりの日本で、海外のニュースを聞きたい人は多く、注文は少しずつ増えていきます。

翌 1946年、井深は盛田昭夫とともに東京通信工業を設立しました。資本金19万円、社員は 20 人余り。のちのソニーです。

ソニーの公式社史には、井深が当時こう考えていたことが記されています。戦前からの大企業はいずれ復活する。そんな会社と正面から競争しても勝てない。だから、「大企業がやらないことをやろう」と。

80 年後の 2026年8月、『The Economist』の Podcast The Intelligence が日本のスタートアップを取り上げた回も、このソニーの物語から始まりました。

しかし、そこで語られるのは成功物語ではありません。

なぜ今の日本から、ソニーのように小さく生まれ、やがて世界規模になる会社が、もっと出てこないのか。

もちろん、ソニーやホンダだけを振り返れば、生き残った成功者だけを見てしまう「生存者バイアス」になります。それでも、日本ほどの経済規模を持つ国から、世界を驚かせる新しい企業がどれほど生まれているかを考えると、この問いを無視することはできません。

『The Economist』は一つの数字を挙げています。
世界には企業価値10億ドル以上の未上場企業、いわゆる「ユニコーン」が約1,400社あるのに、日本生まれは6社しかないというのです。ユニコーンの数は調査機関や定義によって変わりますから、「6」という数字そのものにこだわる必要はありません。

重要なのは、日本では新しい会社をつくること以上に、
できた会社を世界規模まで大きくすることが難しい
という指摘です。

その理由として、『The Economist』は三つの問題を挙げています。

まず、お金です。

会社を始めるには資金が必要です。
日本でも、アイデアを製品にしたり、最初の顧客を見つけたりする段階のお金は、以前より集まりやすくなってきました。問題は、その先にあります。

日本である程度成功した会社が、アジアへ、アメリカへ、そして世界へ進出しようとすれば、必要なお金の桁が変わります。人を採り、海外に拠点をつくり、広告を出し、研究開発を続けなければなりません。その段階で数十億円、場合によっては数百億円という資金が必要になりますが、日本では、こうした「会社を大きくするためのお金」がまだ十分ではないと『The Economist』は指摘します。

実際、2026年に発表された日本の研究でも、起業そのものの可能性や国内の貯蓄は大きい一方で、成長企業に長期的な資金を供給する未上場株式市場の弱さが、日本の構造的な問題だと論じられています。

二つ目は、社会の見方です。

日本では、大企業に入り、そこで長く働くことが、今なお一つの安定した人生のモデルです。その会社を辞め、名前も知られていない小さな会社へ移る。まして、自分で会社を始める。それはシリコンバレーなどと比べれば、ずっと大きな賭けとして受け止められてきました。

起業する本人だけの問題ではありません。スタートアップが優秀な社員を採れるか、家族がその選択を応援するか、大企業から新しい会社へ人が動くか。社会が「失敗するかもしれない挑戦」をどう見るかは、そうしたところにも影響します。

しかし、今回の話で私がもっとも興味をひかれたのは、三つ目でした。日本のスタートアップは、上場するのが早すぎるのではないか。

少し奇妙に聞こえます。株式市場に上場する*IPOは、会社にとって大きな成功のように見えるからです。創業者が鐘を鳴らし、新聞に名前が載り、「ついに上場企業になった」と祝う。私たちは自然に、そこを一つのゴールとして見ます。

*IPOとは「Initial Public Offering」の略で、日本語では「新規公開株式」や「新規株式公開」と言います。未上場の企業が証券取引所に株式を上場し、一般の投資家が自由に売買できるようにすることを指します。

ところが、『The Economist』の見方は逆です。

日本では、アメリカならまだ「これから会社を本格的に大きくしていく段階」と考えられる規模で、株式市場に上場する会社が少なくありません。番組によれば、2025年末に東京証券取引所のグロース市場へ新規上場した会社の時価総額の中央値は100億円程度でした。世界を狙う巨大企業というより、まだ成長の途中にある会社です。

では、なぜそんなに早く上場するのでしょうか。

スタートアップにお金を出した投資家は、いつか投資した資金を回収しなければなりません。アメリカでは、成長したスタートアップを別の大企業が買収する M&Aも、そのための重要な道です。ところが日本では、歴史的にこのM&A という選択肢が十分に育ってこなかったため、投資家にとって IPO が分かりやすい出口になってきました。

これは『The Economist』だけの見方ではありません。
経済産業省も2026年5月、新たに「スタートアップ M&A ガイダンス」を公表しました。そこでは、日本のスタートアップはこれまでIPOを主要な成長手段として選んできた一方、今後は M&A をもっと活用する余地があると明記されています。

上場すること自体が悪いわけではありません。問題は、上場した瞬間から会社に別の仕事が増えることです。

決算を発表し、株主に説明し、株価を意識し、上場企業として必要な管理体制を整える。どれも当然必要なことですが、本来なら「どうすればこの会社を世界で10倍にできるのか」を考えていたはずの経営者が、「どうすれば上場企業としてきちんと運営できるか」にも、多くの時間を使わなければならなくなります。

ここで、IPO の意味が逆転する可能性があります。

本来なら、上場は会社がさらに大きくなるための出発点です。
しかし、そこへ到達すること自体が成功と見なされれば、いつの間にか上場がゴールになってしまう。

東京証券取引所も、この問題を放置しているわけではありません。現在のグロース市場では、上場から10年たった会社に時価総額40億円以上を求めていますが、2030年からは原則として、上場5年後に100億円以上へと基準を引き上げます。東証が会社に求めようとしているのは、単に上場することではなく、上場した後も成長を続けること です。

こう考えていくと、日本のスタートアップ問題を「日本人には野心が足りない」という精神論だけで説明することの危うさが見えてきます。

もちろん、文化は関係するでしょう。
しかし、人は制度の中で行動します。
大企業を辞めるリスクが大きければ、人は辞めにくい。
世界へ出るための資金がなければ、国内で成長する道を選ぶ。
会社を売る市場が弱ければ、IPOを選ぶ。
そして、小さくても上場すれば「成功した会社」と評価されるなら、そこを一つの目標にすることには合理性があります。

だから問題は、起業家の勇気だけではありません。

日本の仕組みは、どんな会社を育てるようにできているのか。

政府もすでに動いています。
2022年にまとめた「スタートアップ育成5か年計画」では、人材づくり、資金供給、そして大企業との連携を三本柱に掲げ、2027年度までにスタートアップへの投資額を10兆円規模へ増やすという大きな目標を置きました。

したがって、「日本にはもうイノベーションがない」と結論づけるのも早いと思います。

むしろ、興味深いのはこれからです。

日本はこれまで、「会社をつくる人を増やそう」としてきました。
それは必要です。
しかし、次の段階では別の問いが重要になるのではないでしょうか。

生まれた会社を、世界で戦えるところまで大きくできるか。

1946年に東京通信工業ができたとき、そこには資本金19万円と20人余りの社員しかいませんでした。それを見て、世界的企業の誕生を予想できた人がどれほどいたでしょう。

けれど井深たちは、その小ささを完成形とは考えませんでした。大企業にはできないものをつくり、日本で初めての製品を生み出し、やがて海外へ出ていった。ソニーの歴史を振り返ると、イノベーションとは何か新しいものを思いつく瞬間だけを指すのではないことがわかります。

アイデアを生むこと。
会社をつくること。

そしてもう一つ、その会社を 小さいままで終わらせないこと。

「次のソニー」が生まれるかどうかを考えるとき、私たちはアイデアと会社を作ることばかりを見てきたのかもしれません。

日本のイノベーションに今問われているのは、何かを始める力だけではない。これからさらに必要とされるのは、始めたものを、大きくする力、なのだと思います。■

主な参照資料

  • The Economist, The Intelligence, “Wake-up haul: an Ozempic moment for the brain”, August 19, 2026(日本のスタートアップに関するEthan Wuの解説)
  • ソニーグループ「第1部 第1章 東京通信工業株式会社設立」
  • 経済産業省「スタートアップ育成5か年計画」「スタートアップM&Aガイダンス」
  • 日本取引所グループ「グロース市場・上場維持基準」

初出:note、2026年9月1日。Fabio Caipirinha の恒久アーカイブとして収録(本サイト掲載:2026年10月15日)。原文:https://note.com/proper_clam757/n/ne09062f43e07

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