最初から『オデュッセイア』について十本も書くつもりだったわけではありません。でも考えれば考えるほどいろいろな問いが現れてくるのです。
マガジンにしています👇

https://note.com/proper_clam757/m/mc335d296a167

ここで、次の問いが出てきました。

なぜ、こんなに古い物語から、いまも新しい問いが生まれるのでしょう。

最近、その理由を考えるヒントになる文章を読みました。

アメリカの雑誌 The New Yorker で長年映画を論じてきた評論家 Richard Brody が、今話題沸騰中の、クリストファー・ノーラン監督の映画『The Odyssey』について書いた批評です。

https://www.newyorker.com/culture/the-front-row/what-makes-an-adaptation-good

Brodyはノーラン監督の翻案を、面白い言葉で分類しています。

「身体を残して、エンジンを変えた」

映画にはオデュッセウスがいて、故郷イタケーがあり、キュクロープスなど原作でおなじみの人物や出来事が登場します。

つまり「身体」はホメロスの『オデュッセイア』です。

しかしBrodyによれば、人物の心理や倫理、会話、物語を動かす力は大きく作り替えられている。つまり、「エンジン」が変わった、というわけです。Brody自身は、その変更にかなり批判的でした。

私は、この「身体とエンジン」という比喩を読んでいて、別のことを考えました。

そもそも古典とは、そうやって生き延びてきたのではないでしょうか。

『オデュッセイア』は、完成した一冊の本が三千年近く、そのまま保存されてきた作品ではありません。

その背景には長い口承の伝統があります。物語は声で語られ、やがて文字になり、別の言語へ訳され、舞台になり、小説になり、そして映画になりました。

そのたびに、何かが変わります。

『オデュッセイア』を現代英語に訳した古典学者Emily Wilsonにも、判断があります。

どの言葉を選ぶのか。どんなリズムにするのか。
古い作品を、いま生きている読者へどう渡すのか。

ノーラン監督が映画にするときにも、同じように判断があります。

何を残すのか。何を削るのか。
何を現代の観客に見せるのか。

古い作品を、完全にそのまま次の時代へ運ぶことはできません。では、変わった瞬間に、それはもう『オデュッセイア』ではなくなるのでしょうか。

私は、そうは思いません。

変わることができたからこそ、古典は生き残ってきた。
私はこう思います。

1954年、のちにフランスを代表する映画監督になるFrançois Truffautは、当時のフランス映画を批判する有名な文章を書きました。

その中で彼は、小説には「映画にできる場面」と「映画にできない場面」がある、と最初から決めてしまう考え方に異議を唱えます。

映画にできないのではない。
その場面を映画にする方法を、まだ誰も見つけていないだけかもしれない。

これは映画だけの話ではないと思います。古典を守るというと、できるだけ元の姿を変えずに保存することを考えます。

もちろん、それは欠かせません。原文を残し、研究し、正確に読む人がいるからこそ、私たちは過去の作品に触れられます。

でも、保存するだけでは、作品は次の時代を生きられない。

誰かが読み直す。
別の言葉に訳す。
違う舞台で演じる。
自分の時代の問いをぶつける。
ときには、大胆に作り替える。

そうするたびに、「この物語で本当に大切なのは何なのか」が、もう一度問われます。だからノーラン版をめぐって、これほど議論が起きるのでしょう。

もし『オデュッセイア』が単なる昔話なら、原作と違っていても、ここまで気にする人はいないはずです。

ところが私たちは、「そこを変えたら『オデュッセイア』ではなくなる」と言い、「いや、現代に語り直すなら変える必要がある」と言い合う。

三千年近く前の作品を前にして、2026年の私たちがまだ本気で議論している。それ自体が、この作品がまだ生きている何よりの証拠なのかもしれません。

では、何が残れば『オデュッセイア』なのでしょう。

キュクロープスでしょうか。👁️
セイレーンでしょうか。🧜
トロイア戦争を終えたオデュッセウスが、イタケーへ帰るという筋でしょうか。🏝️

それとも、その奥にある問いでしょうか。

長い旅のあと、人は本当に家へ帰れるのか。
長い不在のあいだに変わってしまった家族と、どう生き直すのか。
戦争を生き延びた人間は、暴力をどこで終わらせるのか。
自分は何者なのか。
そして、何を信じ、どう判断するのか。

この連載を書きながら、私はずっと同じ『オデュッセイア』を読んでいるつもりでした。けれど振り返ってみると、見る角度を変えるたびに、違う作品が現れていました。

翻訳から見れば、古い言葉をどう次の時代へ渡すかという物語になる。
帰還から見れば、昔の場所へはそのまま帰れないという物語になる。
判断から見れば、神々の声と人間の選択が交錯する物語にもなる。

どれか一つだけが正しい、ということではありません。

同じ作品なのに、時代や読む人が変わると、新しい問いが立ち上がる。

おそらく、そこに古典の強さがあります。
ただし、何でも変えればいいわけでもありません。
形を残していても、その作品を動かしていたものまで失えば、Brodyがノーラン監督に向けたように、「身体は同じでもエンジンは別物ではないか」という批判が生まれます。

だからこそ、古典を受け継ぐことは難しい。
保存するだけでもない。
自由に作り替えるだけでもない。
何を変え、何を残すのかを考え続けることが大事になるのだと思います。

そして、その判断が繰り返されてきたからこそ、『オデュッセイア』はここまで旅を続けてきたのでしょう。

私はこの十本を書いて、古典とは「昔の答えを保存した作品」ではないのだと思うようになりました。

古典とは、時代が変わるたびに、同じ問いを別の形でこちらへ返してくる作品です。

オデュッセウスは長い旅の末にイタケーへ帰ります。
でも、二十年前の世界に戻ったわけではありません。
彼も、妻ペネロペも、息子テレマコスも変わっています。

帰ることは、元に戻ることではない。
古典も同じなのかもしれません。
三千年近く前の姿のまま、私たちのところへ帰ってくることはできない。
それでも姿を変えながら、何度でも帰ってくる。

ここまで十本、『オデュッセイア』について書いてきました。
これで一度、この旅を終えます。
けれど、『オデュッセイア』について書き終えたとは、もう思っていません。

誰かが読み直すたびに、また新しい問いが生まれるからです。

そして、そのたびに、
船はもう一度、出るのだと思います。◾️

参考: 全10回、マガジンはこちらから

https://note.com/proper_clam757/m/mc335d296a167


初出:note、2026年9月3日。Fabio Caipirinha の恒久アーカイブとして収録(本サイト掲載:2026年10月15日)。原文:https://note.com/proper_clam757/n/n96d795f66864

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