失われた時間は、本当に消えるのか
ゴールデンウィークを活用して、友人たちと読書会をしようということになりました。
せっかくなら名作を読もう。
しかも、あまり背伸びをしすぎず、でも大人が読んでも深く残るものがいい。
そんな流れで、岩波少年文庫からそれぞれ一冊ずつ「これだ」と思う作品を選び、集まって話すことになりました。
私が選んだのは、フィリパ・ピアスの『トムは真夜中の庭で』でした。
児童文学の名作として知られる一冊です。
題名はもちろん知っていたのですが、これまで長く未読。やっと重い腰を上げて向き合いました。
読み終えて強く感じたのは、これはタイトルが示すとおり単に「少年が夜中に不思議な庭へ行く話」ではない、ということでした。
これは、失われた時間についての物語でした。
もう戻らない子ども時代。
取り壊され、姿を変えてしまった家。
かつてそこにあった庭。
そして、年老いた人の中に、いまもひっそり生きている少女や少年。
『トムは真夜中の庭で』が深く心に残るのは、時間を巻き戻す夢を描いているからではありません。
時間は戻らない。
その事実を知りながら、それでも、失われたものが完全には消えない可能性を描いているからだと思いました。
物語は、少年トムが叔父夫婦の家に預けられるところから始まります。
弟がはしかにかかり、トムはしばらく家を離れなければならなくなる。
叔父夫婦の住む建物には自由に遊べる庭もなく、退屈な日々が待っているはずでした。
ところが、真夜中に古い大時計が十三時を打ちます。
ありえないはずの十三時。
そのとき、昼間には存在しなかった広大な庭が現れます。
トムは夜ごとその庭に入り、そこでハティという少女と出会います。
二人は庭で遊び、少しずつ親しくなっていく。
しかし物語が進むにつれて、その庭は単なる魔法の庭ではなく、ハティの過去、記憶、そして失われた時間と深く結びついていることがわかってきます。
最初は、いかにも児童文学らしい冒険の始まりに見えます。
閉じ込められた少年が、夜の秘密の庭で自由を得る。
現実の退屈から、想像力の世界へ抜け出す。
けれど読み進めるうちに、この庭の意味は少しずつ変わっていきます。
庭は、ただの遊び場ではありません。
誰かの過去であり、誰かの記憶であり、もう現実には存在しない時間の残響なのです。
この読みをさらに深くしてくれるのが、巻末に掲載されている作者フィリパ・ピアス自身のコメントです。
ピアスは、キャム川の上流、グレート・シェルフォードにある製粉工場の家で生まれ育ちました。父は製粉工場主で、その家には大きな庭があり、芝生の周囲には古いイチイの木が並んでいたと書き残しています。
つまり、『トムは真夜中の庭で』の庭は、まったくの空想から作られたものではありません。
それは、作者自身が知っていた庭でした。
子どもの頃に見た家であり、遊んだ場所であり、のちに失われていく風景でした。
しかもピアスは、この物語を書くにあたり、家族から昔の絵や写真を借り、かつての家や庭の姿をできるだけ正確に思い出そうとしています。
ここがとても面白いところです。
ファンタジーを書くために、彼女は現実の細部を集めていた。
これは、創作について大事なことを教えてくれます。
幻想は、現実から離れれば離れるほど強くなるわけではありません。
むしろ、現実の細部に深く根を張っているからこそ、不思議な世界は読者に信じられるものになる。
『トムは真夜中の庭で』の庭が忘れがたいのは、それがただ美しいからではありません。
そこに、作者自身の記憶が埋まっているからなんですよね。
庭は、記憶の保存装置なんですね。
さらにピアスは、J・W・ダンの『時間についての実験』からも示唆を受けたと語っています。夢や時間の流れ、物語の中で時間がどのように変形するか。そうした問いが、この作品の背後にはあります。
だからこの物語の時間は、単なるタイムトラベルの仕掛けではありません。
機械で過去に行く話ではない。
過去を変える話でもない。
むしろ、記憶の中で過去と現在がふいに重なり合う話です。
トムは過去を変えるために庭に入ったのではありません。
彼は、ハティの孤独な子ども時代を見つけるために、そこに迷い込んだのです。
ここが、この作品の一番美しいところだと思います。
ハティにとってトムは、子どもの頃に現れた不思議な友だちでした。
でも同時に、老いたハティにとっては、自分の中にまだ少女が生きていることを思い出させてくれる存在でもあります。
そして、物語の最後。
トムは、階段の上にいる老女の姿を見ます。
それは、叔母の家に住むバーソロミュー夫人でした。
けれどトムには、もうわかっています。
その老女こそが、ハティだったのです。
トムは階段を駆け上がり、老いたハティに抱きつきます。ハティもまた、トムを抱きしめる。そこには、普通の再会以上のものがあります。
少年のトム。
老女のハティ。
少女だったハティ。
かつて庭で遊んでいた二人。
すべてが一瞬だけ重なります。
ここで胸を打たれるのは、ハティが「かつて少女だった」という事実です。
当たり前のことなのに、私たちは普段それを忘れています。
老人を見るとき、私たちはその人を「老人」として見てしまう。
けれど、その人にも子ども時代があった。
走った庭があり、秘密があり、孤独があり、誰かを待っていた時間があった。
『トムは真夜中の庭で』は、その見えなくなった子どもを、もう一度見せてくれる作品です。
ピアス自身も、作品についてのコメントの中でこの点に触れています。
ハティはおばあさんになったあと、自分の過去をもう一度はっきり思い出し、その瞬間にトムを抱きしめることができた。
おばあさんは、自分の中に少女としての自分を持っていた。
私たちはみな、自分の中に子どもを持っているのだ、と。
この言葉を読むと、ラストシーンの意味がよりはっきりします。
あの抱擁は、少年と老女の抱擁ではありません。
現在と過去の抱擁です。
老人の中に残っていた少女と、いま目の前にいる少年の抱擁です。
そしておそらく、読者自身の中にいる子どもも、そこに呼び戻される。
だから、この作品は子どもが読んでも面白い。
でも、大人が読むと別の痛みを持つ。
子どもにとって、この物語は夜中の庭への冒険です。
大人にとって、この物語はもう戻れない時間との再会です。
読書会で話していても、そこが印象的でした。
同じ本を読んでいるのに、人によって見えている庭が違うのです。
ある人には、自由な遊び場に見える。
ある人には、失われた子ども時代に見える。
ある人には、老いの中に残る記憶に見える。
ある人には、もう存在しない家や場所への郷愁に見える。
けれど、最後にはみな同じ場所に戻ってくる。
時間は戻らない。
でも、記憶は消えたものを完全には消さない。
この作品が描いている救いは、過去を取り戻すことではありません。
失われた時間を、なかったことにしないことです。
誰かが覚えている。
誰かが見つけてくれる。
誰かが、老いた姿の奥に、かつての子どもを見てくれる。
それだけで、過去は少しだけ救われる。
『トムは真夜中の庭で』の庭は、もう現実には存在しないのかもしれません。
でも、ハティの中に残っていた。
トムがそこに入り込んだ。
そして読者もまた、その庭を歩いた。
その意味で、庭は消えていない。
文学とは、そういうことができるものなのだと思います。
失われた場所を、もう一度歩けるようにする。
忘れられた時間を、もう一度誰かの心に開く。
年老いた人の中にいる子どもを、もう一度見えるようにする。
『トムは真夜中の庭で』は、失われた時間を取り戻す物語ではありません。
失われた時間が、誰かに見つけられ、抱きしめられる物語でした。■
初出:note、2026年5月5日。Fabio Caipirinha の恒久アーカイブとして収録(本サイト掲載:2026年10月15日)。原文:https://note.com/proper_clam757/n/n49cbc80981a4