イギリス南東部、ドーバー沖の海底。

2025年、水中写真家のステファン・パニスが沈没船を潜っていると、一本の古いガラス瓶を見つけました。引き上げて表面を洗うと、文字が現れます。

Guinness Extra Stout, London.
ギネスビールでした。

しかも、その瓶が沈んだのは1864年です。
日本ではまだ江戸時代。イギリスではヴィクトリア女王の時代でした。

瓶を積んでいたのは、Mindoroというイギリスの帆船です。1864年11月20日にロンドンを出航し、カナダのバンクーバー島へ向かっていました。

しかし一週間後、英仏海峡で別の船と衝突。Mindoro 号は積荷とともに海へ沈みました。ギネスも、そのまま海底へ消えました。

それから162年。
瓶はまだ栓をされた状態で残っていました。

ここで、誰でも一つ思うことがあります。

いったい、どんな味がするのだろう。

もちろん、いきなり開けて飲むわけにはいきません。
海水が入っていないか。危険な細菌はいないか。
162年の間に中身がどう変化したのか。まず調べる必要があります。

そこで瓶のサンプルは、ベルギーのKU Leuven(ルーヴェン・カトリック大学)へ送られました。分析するのは、酵母や発酵を研究している微生物学者ケヴィン・ヴァーストレーペン氏です。

彼らが注目しているのが、ビールの中に残された酵母のDNAです。ビールは、麦やホップだけでできるわけではありません。酵母が糖を発酵させることでアルコールが生まれ、その過程で香りや風味もつくられます。どんな酵母を使うかは、ビールの味を左右する大切な要素です。

ここで面白いことがあります。

2024年、研究者たちは Guinness の歴史的な酵母を遺伝子レベルで調べました。現在のGuinnessに使われている酵母の系統は、保存されている資料から1903年の酵母まで さかのぼることができます。

ところが、Mindoroが沈んだのは1864年。
39年も前です。

もし瓶の中に酵母のDNAが残っていれば、これまで空白だった時代のGuinnessに近づけるかもしれません。ただし、ここは慎重に考える必要があります。162年前の酵母が、まだ生きているとは限りません。DNAを読み取れたとしても、それだけで1864年の Guinness を完全に再現できるわけでもありません。

麦、ホップ、水、発酵方法、温度。
ビールの味を決めるものはたくさんあります。

研究者が考えているのは、残ったDNAから酵母の「家系図」の位置を調べ、現代に近い仲間がいないか探すことです。そこから、当時の味へ少しずつ近づいていく。
現在はまだ、その途中だといいます。

今回は「162年前のギネスを再現した」というニュースではありませんでした。でも、私はむしろ、その方が面白いと思います。

私たちは普通、歴史を読むものだと考えています。

手紙を読む。
日記を読む。
古い新聞を読む。
絵や写真を見る。

そこから、昔の人々がどう生きていたのかを想像します。けれど、人間が生きていた世界には、文章に残らないものもあります。

音があり、匂いがあり、手触りがあり、味がありました。

1864年、この瓶は誰かに飲まれるはずだったのでしょう。その人にとって、それは「ヴィクトリア時代の歴史的ビール」などではありません。
ただの一杯の Guinness です。

それが飲まれないまま海底へ沈み、162年後、科学者たちの手に渡った。一本のビール瓶が、突然、歴史資料になったということですね。

完全に同じ味を取り戻すことは、たぶんできません。

それでも、DNAや発酵の技術を使えば、文字では残せなかった過去に、ほんの少し近づくことができるかもしれない。

歴史は、読むことしかできないものではない。
ほんの一口だけなら、味わうこともできるものなのかもしれません。
🍺

参考情報

  • Ellen Wexler, “Shipwreck Divers Discovered a 162-Year-Old Bottle of Guinness Brewed During the Reign of Queen Victoria,” Smithsonian Magazine, 12 August 2026.

  • Daniel W. M. Kerruish et al., “The origins of the Guinness stout yeast,” Communications Biology, 2024.


Originally published on note on 2026-09-12 07:29:58 JST.

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