イギリスの Guardian 紙 の Long Read というセクションは、読みごたえのある長文ルポルタージュで知られています。
速報ではなく、制度の背景や、そこで働く人々の思考や感情まで掘り下げる。
読み終えたあと、出来事を立体的に理解できる記事が多い印象です。
2025年に掲載された大英博物館に関する一本は、その代表例でした。
今年もフランスのルーブル美術館での盗難が大きなニュースとなりましたが、実はイギリスの大英博物館でも2023年に大規模な盗難事件が発生しています。
BBCのこちらの記事に詳しく書かれています。
今回紹介する、上のGuardian による記事は、大英博物館が直面している状況を、単一の不祥事ではなく、「全方位的な危機(omni-crisis)」として描いています。
植民地主義をめぐる返還問題、慢性的な資金不足と施設の老朽化、管理体制の脆弱さ、そして決定的だった内部盗難事件。
これら様々な難局が同時に進行している現実が、冷静に記述されています。
目次
内部盗難事件とは何だったのか
内部盗難の背後にあった、現場の仕事
私が大学時代に学んだ、キュレーションの前提
白いドラムが象徴していたもの
時代のcustodianとして
内部盗難事件とは何だったのか
まず、この事件について簡単に整理しておきたいと思います。
2023年、大英博物館の内部で、長年にわたり多数の収蔵品が盗まれ、あるいは損傷していたことが明らかになりました。
対象は主に古代の宝石や小型の装身具で、推定約2,000点。その一部はオンラインマーケットなどで、驚くほど安価に売られていたことも判明しています。
この事件は博物館のこれまでの立ち位置ににとって致命的でした。
大英博物館はこれまで、たとえば、各国から寄せられる収蔵品の返還問題に対して
「ここは安全な保管場所であり、人類共通の遺産を守っている」
という立場を取ってきました。
自分たちこそ世界最高峰の技術と人材で人類の宝を守ってきた、という主張ですね。
ところが、その「守っているはずの場所」から、内部の人間によって物が失われていたわけです。
これは評判の失墜というより、博物館としての正当性そのものを揺るがす出来事でした。
内部盗難の背後にあった、現場の仕事
内部盗難事件が明るみに出たあと、大英博物館については、
「管理がずさんだった」
「組織として崩壊している」
といった評価がもちろん前面に出ました。
この Guardian 記事もその見方を否定はしません。
しかし同時に、事件の陰で続いていた現場の仕事のあり方を、非常に丁寧に描いています。
大英博物館の収蔵品は、数え方によっては600万点から800万点とも言われます。
そのすべてが写真撮影され、データベース化され、完全に管理されているわけではありません。
多くのキュレーターは、
・数万点から数十万点の収蔵品を担当し
・限られた人員と予算の中で
・展示、研究、保存、記録、貸し出し対応
を同時に担っています
記事の中で語られるのは、盗難が発覚したときに多くの職員が感じた「裏切られた」という感覚です。
それは、彼らが作品を「資産」ではなく、「預かりもの」として扱ってきたからこそ生まれた感情でした。
私が大学時代に学んだ、キュレーションの前提
この部分を読みながら、私は大学時代の授業を思い出しました。
私は学生時代、イギリスで美術品の保存と修復を学んでいました。
そこで最初に、そして繰り返し教えられたのは、
キュレーターは作品の所有者ではない、という考え方です。
美術品や文化財は、私たちのものではない。
私たちはただ、この時代を代表して、次の世代まで一時的に預かっているだけ。
英語では、
We are merely a custodian of this era
(我々はこの時代の管理人に過ぎない)
という言い方をします。
この考え方は、倫理としてだけでなく、保存修復の具体的な判断にも貫かれていました。
特に強く記憶に残っているのが、
保存や修復の方法は、必ず reversible(可逆的)でなければならない
という原則です。
今の技術では、ここまでしかできない。
しかし、500年後にはまったく新しい保存技術が生まれているかもしれない。
だからこそ、いま施す処置は、必ず元に戻せるものでなければならない。
「この時代の最善」を、未来の可能性で封じてはいけない。
その姿勢は、とても謙虚で、同時にとても厳しい倫理だと思います。
Guardian の記事に描かれていた多くのキュレーターたちの態度――
作品を自分たちの功績や所有物として扱わず、静かに、しかし執拗なまでに「次」を意識して仕事をする姿――は、私が大学で学んだこの倫理と、はっきり重なって見えました。
白いドラムが象徴していたもの
ここで記事の中でも特に象徴的な一場面を紹介します。
バートン・アグネス・ドラムは、約5,000年前の新石器時代に作られたと考えられている、白亜(チョーク)製の小さな彫刻品です。

この彫刻品は、2015年、イングランド北部で、三人の子どもが埋葬された墓から出土しました。
直径は手のひらほど。
表面には、幾何学的な模様が精緻に彫り込まれています。
素材がチョークであるため、非常にもろく、触れ方ひとつで表面の彫刻が失われてしまう。
そのため、このドラムは、
・温度
・湿度
・光
・振動
あらゆる要素に細心の注意を払って扱われます。
保存修復の観点から見ても、「できるだけ何もしないこと」が、最善のケアであるタイプの作品です。
記事の中で、この白いドラムを扱うキュレーターの姿は、ほとんど息をひそめるような慎重さで描かれています。
そこには、管理や支配の感覚はありません。
あるのは、壊してしまうかもしれないという恐れを引き受けながら、それでも次に渡す責任を負う態度です。
大英博物館は、確かに巨大で、矛盾を抱えた帝国のミュージアムです。
しかし同時に、その内部では、名もなき専門家たちが、驕りやエゴとは無縁の場所で、黙々とケアを続けている。
白いドラムは、その象徴なのだと思います。
時代のcustodianとして
この Guardian の記事を読み終えたとき、強く残ったのは、大英博物館という巨大で矛盾を抱えた制度の中に、それでも確かに存在している「仕事の倫理」でした。
内部盗難は許されないですし、制度としての失敗は、厳しく検証されるべきです。
それでも、多くのキュレーターたちが、作品を「所有物」ではなく次代への「預かりもの」として扱い、無私の心で、次の世代に引き継ぐための仕事を続けています。
人類の共通の遺産について考えるとき、こういった人たちのことも忘れないようにしたいと思います。■
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‘The ghosts are everywhere’: can the British Museum survive its omni-crisis?