アメリカは銃を持つ権利を、個人に委ねています。
使う、使わない。その判断を、政府ではなく、一人ひとりの人間に任せている。
ある意味でこれは、人間への信頼の表明です。
そう解釈することもできます。
一方で日本は違います。
銃は最初から存在しない。
選択肢そのものが、消されています。
どちらが成熟した社会なのか。人を信じる社会なのか。
個人の自由か、公共の安全か。
私はずっとそれが気になっていました。
もちろん、正解はありません。
でもある日、気づきました。
これはそのまま、リーダーシップの問いにも通ずる、と。
私はリーダーシップを教える仕事をしています。
経営哲学を研究し、組織の中でどう人が動くかを、長年考えてきました。なにより子どもの頃からずっと、組織の中で生きてきました。今もそうです。
それでも、時に組織という構造に違和感を覚えることがあります。
人と深く関わることの難しさを、感じることがあります。
この問いがいつもあります。
人間を信じるとは、どういうことか。
スタンフォード大学の組織心理学者、Bob Sutton の有名な研究があります。
Guy Kawasaki が Substack で紹介していました。
https://guykawasaki.substack.com/p/the-friction-project-bob-suttons
Sutton 教授は、著書『The Friction Project』の中で彼はこう論じています。
組織における本当の問題は、摩擦だ。
リーダーが優秀かどうかより、職場にどんな摩擦があるかの方が、組織の機能を左右する。
ただし 彼が言う「摩擦」は、すべてが悪ではありません。
Suttonは「悪い摩擦」と「良い摩擦」を明確に区別しています。
悪い摩擦とは、無意味な官僚主義、不必要な承認プロセス、人を消耗させるだけの対立。
これは除去すべきです。
一方、良い摩擦とは、成長を促す対話、異論、建設的な緊張感。これは意図的に残すべきだ、と。
これを読んで、深く頷きました。
私自身、善意から相手に指摘をして、それを頑なに拒絶された経験が何度かあります。こちらが成長を願っているのに、相手はその扉を閉じる。
これが「悪い摩擦」の正体だと、私は思っています。
良い摩擦——成長のための緊張感——を受け取る意志のない人間との関係は、互いを消耗させるだけです。
だから私は、Coachability (コーチャビリティ)の低い人間には深入りをしません。
自然とそう動いています。
意識してそうしているわけではなく、気づいたらそうなっています。
ただ、ここで自分に問い返す必要があります。
これは人間不信なのではないか、と。
「この人は変わらない」と判断した瞬間、私は相手の可能性を手放していないか。
賢人皇帝 マーカス・アウレリウスは『自省録』の中で、何度も自分自身に言い聞かせています。
人間は互いに存在するために生まれたのだ。
腹の立つ相手も、理解できない相手も、同じ人間だ、と。
ローマ帝国を統治した皇帝でも苦しんでいた。
そして、ついぞ答えを出せなかった。
「人間を信じる」とは、目の前の誰かを個人として評価することとは、少し層が違うのかもしれません。
その人個人を見ると、粗が見えます。過去のやり取りが思い出されます。あの時傷つけられたことも、蘇ってきます。
でも、その粗もあって、その痛みもあって、それでもその人は人間なんだ。人間を相手にしているのだから、もっと愛そう。
そういう心持ちの話なのかもしれません。
マネジメントのクラスで私はいつも言います。
群ではなく個で見なさい、一人ひとりを見なさい、と。
ただ「人間を信じる」というのは、それとは別の層にある気がします。個々の評価を超えた場所にある。
人間という存在そのものの可能性を、手放さないということなのだと思います。
銃規制の話に戻ります。
全員に銃を持たせる権利を付与する社会は、人間を、その判断を信じているように見えます。
だが実際には、誘惑に負ける人間が必ず出てきます。
国家元首も核を持つから、使いたくなる。
選択肢があるから、その誘惑にかられる。
選択肢を最初から除去することは、自由の侵害でしょうか。
それとも、人間の弱さへの現実的な配慮でしょうか。
どちらがより、高次元の人間社会を形成していると言えるのでしょうか。
正解は、出ません。
ローマ帝国の哲人皇帝にも出せなかった問いです。
ただ考え続けることはできます。
それが答えなのかもしれません。◾️
初出:note、2026年6月29日。Fabio Caipirinha の恒久アーカイブとして収録(本サイト掲載:2026年10月15日)。原文:https://note.com/proper_clam757/n/na9c7d1a62557