古典学者 エミリー・ウィルソンの『オデュッセイア』から学んだこと
最近はホメロスの『オデュッセイア』に夢中になっています。映画の公開が待ち遠しいです。
三千年近く前に生まれた物語なのに、読むたびに新しい発見があります。
冒険譚としての面白さだけではありません。
家に帰るとはどういうことか。
英雄とは何者なのか。
人間はなぜ、自分で帰り道を複雑にしてしまうのか。
読み進めるうちに、私は一人の翻訳家の仕事を知りました。
古典学者のエミリー・ウィルソンです。
クリストファー・ノーラン監督が『オデュッセイア』の映画化を考えるうえで言及した翻訳の一つも、彼女による英訳でした。
ウィルソンは『オデュッセイア』の冒頭を、こう訳しています。
Tell me about a complicated man.
ある複雑な男について語ってほしい
[画像省略:出典 https://www.instagram.com/p/DbSoRidmnDp/?igsh=b2FpeHp4NG1jN2Iz]
この一文を初めて読んだとき、私は少し驚きました。
complicated
英雄的でも、荘重でもありません。
日常会話でも使われる、ごく普通の言葉です。
(ぜひ本投稿の巻末に載せた他の翻訳家たちの訳文とも比べてみてください)
ちなみに、日本語ではこんなふうに訳されています。
ムーサよ、わたくしにかの男の物語をして下され、トロイエ(トロイア)の聖なる城を屠った後、ここかしこと流浪の旅に明け暮れた、かの機略縦横なる男の物語を。
ー 『オデュッセイア』松平千秋 訳
『オデュッセイア』の冒頭でオデュッセウスを表すギリシャ語は、polytropos といいます。
「多くの方向へ曲がる」「多くの道を歩む」といった意味を持ち、知略、策略、遍歴、多面性など、さまざまなニュアンスを含んでいるそうです。
そのため、過去の英訳では「知略に富んだ男」「多くの術を持つ男」「多くの遍歴を経た男」など、いくつもの訳が試みられてきました。
もちろん、どれか一つだけが正しく、ほかが間違っているということではありません。原文が持つ複数の可能性のうち、何をいまの読者に差し出すのか。
その選択そのものが、翻訳者の仕事なのだと思います。
ウィルソンが選んだのは、「複雑な男」でした。
オデュッセウスは賢い。
しかし、いつも正しいわけではありません。
家族を愛し、故郷へ帰ることを願いながら、嘘をつき、人を欺き、ときには残酷な行動も取ります。困難を切り抜ける知恵を持ちながら、その知恵によって自分の旅をさらに複雑にしてしまうこともあります。
単純な英雄でも、単純な悪人でもありません。
一人の、複雑な人間です。
complicated という一語によって、オデュッセウスが三千年前の神話の英雄から、少しだけ私たちに近い存在になるように感じました。
ウィルソンについて書かれた記事を読み、私はもう一つ大切なことを知りました。
彼女の文章は読みやすく、平易です。
しかし、それは原文を簡単にしたからではありません。
彼女は原文と同じ行数を保ち、英語の詩としての韻律を整え、何度も声に出しながら訳文をつくっていったそう。意味だけでなく、物語の速度や、耳で聞いたときの響きまで考えていたといいます。
ウィルソンは、読者の頭だけでなく、身体に向けて書くという趣旨のことを語っています。
この考え方に、私は強く惹かれました。
私たちは、平明な文章を「簡単な文章」だと思いがちです。けれど、本当は逆なのかもしれません。
複雑なものを単純化するのではなく、複雑なまま読者に届く形へ整える。それには、曖昧な言葉や権威的な表現で覆い隠すよりも、はるかに厳密な理解が必要です。
平明さとは、内容の乏しさではない。
深く理解した人だけが到達できる透明さなのだと、教えてもらった気がします。
私はこれまで、古典が難しいのは、古典そのものが難しいからだと思っていました。
しかし、本当にそうなのでしょうか。
『オデュッセイア』は、もともと静かな書斎で黙読されるために生まれた作品ではありません。
調べてみると、吟遊詩人が人々の集まる場所で声に出して語った物語です。
そこには船旅があり、怪物がいて、魔術があり、戦いがあり、夫婦や親子の再会があります。当時の聴衆は笑い、驚き、恐れ、物語の続きを待ったはずです。
彼らにとってホメロスは、「教養のために我慢して読む古典」ではありませんでした。
目の前で展開する、生きたエンターテインメント
だったはずです。
そう考えると、現代の私たちとホメロスの間にある距離は、作品そのものがつくったものだけではないのかもしれません。
何世紀ものあいだに、翻訳や研究や教育が作品の周囲に積み重ねてきた「古典らしさ」も、その距離を生み出しているのではないでしょうか。
古典を尊いものとして扱おうとするあまり、私たちは古典を遠い場所へ置いてしまう。
ウィルソンが試みたのは、古典の価値を下げることではありません。古典を、もう一度私たちの近くへ戻すことだったのだと思います。
翻訳するときは、原文に「忠実であるか」ということもしばしば議論の対象になります。でも、原文の言葉を一つずつ別の言葉へ置き換えることだけが、忠実な翻訳なのではない気がします。
作品が最初の聴衆に与えた驚きや速度や楽しさを、現代の読者にも感じられるようにする。過去の翻訳者が付け加えた先入観を疑い、原文の中にある矛盾や暴力を、見えないものにしない。そして、遠い時代の物語を、いまを生きる人が自分の問題として受け取れるようにする。
言葉をそのまま保存するのではなく、作品の作用を取り戻す。
翻訳者あとがきで、ウィルソンは読者にこんな場面を想像させます。
「あなたの家の外に、一人の見知らぬ人が立っています。」
彼は疲れ切り、汚れています。
泥棒かもしれない。
殺人者かもしれない。
神かもしれない。
だからまず迎え入れ、食事を与え、その人の話を最後まで聞きなさい、と彼女は書きます。
私は、この文章そのものが彼女の翻訳哲学なのだと思いました。
異質なものを、自分たちの言葉へ無理に同化するのではない。
まず迎え入れ、耳を傾ける。
翻訳とは、その姿勢なのだと思います。
ノーランが彼女の翻訳に惹かれたのも、そこに理由があるのかもしれません。
彼が出会ったのは、三千年前に完成し、博物館に保存されている物語ではありません。いまも人間を驚かせ、新しい解釈を生み、次の創作者を動かす物語だった。
ホメロスから、エミリー・ウィルソンへ。
エミリー・ウィルソンから、クリストファー・ノーランへ。
物語は、翻訳や解釈を通して、次の人へ手渡されていきます。
翻訳そのものが、
次の創作の始まりになりうる
ということですね。
AIによって、言葉を別の言語へ移す作業は、これからますます速く、正確になっていくでしょう。
私自身、AIの翻訳に助けられることが増えました。
だからこそ、ウィルソンの仕事から学んだことがあります。
翻訳に必要なのは、正解の言葉を見つける能力だけではありません。
この作品は、最初の人々にどのように響いたのか。
いまの読者との間に、なぜ距離が生まれているのか。
何を残し、何を変えれば、作品はもう一度生き始めるのか。
そうした問いを引き受ける仕事なのだと思います。
今日の学び:
翻訳とは、過去を保存する仕事ではない。
作品の中に残っている火を消さず、次の時代へ手渡す仕事。
翻訳できないものが残るからこそ、人は新しく創作する。
[画像省略:Rebert Fitzgerald版翻訳https://www.instagram.com/p/DbSoRidmnDp/?igsh=b2FpeHp4NG1jN2Iz]
[画像省略:T. E. Lawrence版翻訳https://www.instagram.com/p/DbSoRidmnDp/?igsh=b2FpeHp4NG1jN2Iz]
[画像省略:Samuel Butler 版翻訳https://www.instagram.com/p/DbSoRidmnDp/?igsh=b2FpeHp4NG1jN2Iz]
⚫︎ 参考記事:
https://www.newyorker.com/magazine/2023/09/18/emily-wilson-profile
#オデュッセイア
https://note.com/proper_clam757/m/mc335d296a167
初出:note、2026年7月23日。Fabio Caipirinha の恒久アーカイブとして収録(本サイト掲載:2026年10月15日)。原文に掲載されている第三者の画像は、権利上の理由により本アーカイブでは省略しています。原文:https://note.com/proper_clam757/n/na8f8fb21fee2