あなたは、人生で誰かを待ったことがありますか。
一週間や一か月ではありません。
いつ帰ってくるのかわからない人を、それでも待ち続ける。その間にも、自分は年を取ります。周囲の人間は変わります。社会も変わっていきます。
それでも、待つ。
『オデュッセイア』というと、私たちは旅をする男の物語を思い浮かべます。
トロイア戦争を終えたオデュッセウスが、一つ目の巨人キュクロープスや魔女キルケ、セイレーンたちと遭遇しながら、故郷イタケーを目指す。
西洋文学における「旅の物語」の原型ともいえる作品です。
ところが最近、古典学者エミリー・ウィルソンが『London Review of Books』のPodcastで話しているのを聞いていて、私は少し違うことが気になりました。
https://podcasts.apple.com/jp/podcast/nolan-v-homer/id510327102?i=1000778380436
この物語で、本当に重要なのは「旅をすること」なのでしょうか。
むしろ『オデュッセイア』は、流れていく時間に、人間がどう抵抗するかを描いた物語なのではないか。
そう考えると、3000年近く前の物語が、少し違って見えてきます。
旅をしている男と、動かない女
オデュッセウスは動き続けています。
海を渡り、島から島へ移り、怪物や神々と出会います。
しかし、妻のペネロペは動きません。
彼女はイタケーに残っています。
夫がトロイアへ向かってから二十年。
その間、彼女のもとには多くの求婚者が押しかけます。
彼らはオデュッセウスはもう死んだのだから、誰かと再婚するべきだと迫ります。
ペネロペはそこで奇妙なことをします。
義父のための死装束を織り終えたら再婚相手を選ぶと言い、昼間に布を織る。そして夜になると、昼間に織った部分をほどいてしまう。
次の日、また織る。
そして夜になると、またほどく。
何年もそれを繰り返します。
子どものころに読めば、これは「賢いペネロペが求婚者たちを騙した」というエピソードに見えるかもしれません。
しかし、もう少し違う見方もできます。
彼女がほどいているのは、布だけではありません。
時間そのものなのです。
昼間、時間は前へ進む。
夜になると、それを巻き戻す。
夫が帰ってくるまで、自分の人生が次の段階へ進んでしまうことを拒んでいる。
ペネロペは旅をしていません。
しかし彼女もまた、オデュッセウスとは別の方法で時間と戦っています。
オデュッセウスも、未来を目指してはいない
さらに考えてみると、オデュッセウスの旅そのものも奇妙です。
普通、旅の物語では、主人公は未知の場所へ向かいます。
新しい世界を発見する。
成長する。
未来へ進む。
ところがオデュッセウスが望んでいるのは、その逆です。
彼が行きたいのは、すでに知っている場所です。
イタケー。
妻のいる家。
息子のいる家。
自分がかつて王だった場所。
つまり彼は、未来を求めて旅をしているのではありません。
過去を取り戻すために旅をしている。
ここに『オデュッセイア』の不思議さがあります。
身体は猛烈に移動しているのに、欲望は過去へ向かっているのです。
永遠に生きられるのに、帰りたい
このことがもっとも鮮明になるのが、カリュプソーの島です。
女神カリュプソーはオデュッセウスを引き留めます。
彼女とともにいれば、老いることも死ぬこともない。人間が何千年も夢見てきたものです。
不老不死。
ところがオデュッセウスは、それを選びません。
彼が帰りたいイタケーには、時間があります。
妻も老いています。
自分も老いています。
家も変わっています。
そしていつか死にます。
それでも帰りたい。
これは考えてみると、かなり不思議な選択です。
永遠の生命よりも、限りある人生を選ぶ。
なぜでしょう。
おそらく『オデュッセイア』が問いかけている「home」とは、単なる場所ではないからです。
自分の歴史がある場所。
自分を知っている人がいる場所。
自分が誰であったかを覚えている人がいる場所。
だから帰還とは、GPS上の座標へ戻ることではありません。時間のなかに、自分の居場所を取り戻すことなのかもしれません。
ところが、時間は待ってくれない
そして、ここには残酷な問題があります。
時間は本当には巻き戻せません。
オデュッセウスがイタケーに戻ったとき、彼はすぐには自分の故郷だと気づきません。
そもそも『オデュッセイア』では、彼がイタケーへ到着するのは全24巻の第13巻です。
つまり、物理的に故郷へ着いたところで、物語はほとんど終わっていない。
ここが非常に重要です。
帰ることと、元に戻ることは違うからです。
二十年という時間は消せません。
幼かったテレマコスは大人になっています。
ペネロペも年を取りました。
家には求婚者たちが居座っています。
そして何より、戦争と放浪を経験したオデュッセウス自身が、二十年前のオデュッセウスではありません。
だから彼は、自分の家に帰ってきたのに、すぐには「帰ってきた人」になれない。ここから『オデュッセイア』は、単純な帰還物語ではなくなります。
失われた時間は、本当に取り戻せるのか。
という物語になるのです。
ノーランらしさ
ここまで考えると、Christopher Nolanが『オデュッセイア』を映画化したことも、少し違って見えてきます。
ノーランはずっと「時間」を撮ってきた監督だからです。
『メメント』では記憶と時間を逆転させ、『インセプション』では夢の階層によって時間の速度を変え、『インターステラー』では宇宙を旅している間に地球の家族が年を取っていく。
特に『インターステラー』を思い出すと、『オデュッセイア』との距離は意外なほど近い。
男が家族を残して旅に出る。
帰ろうとする。
しかし、その間にも時間は流れている。
帰ってきても、出発したときの世界には戻れない。
LRBの番組でも、ノーランはある意味でキャリアを通じて『オデュッセイア』を繰り返し撮ってきたのではないか、という面白い見方が示されています。
なるほど、と思いました。
ノーラン監督がホメロスを選んだというより、ずっと撮り続けてきた問いを遡っていったら、その源流にホメロスがいたのかもしれません。
それでも、ホメロスとノーランは同じではない
ただし、ここでエミリー・ウィルソンは面白い指摘をします。
『オデュッセイア』はノーランにぴったりの題材に見える。
しかしホメロスが非常に得意としているもののなかには、ノーランが必ずしも得意ではないものもある。
たとえば、対話や人物造形です。
これは重要な指摘だと思います。
『オデュッセイア』を「男が困難を乗り越えて家へ帰る物語」としてだけ読むなら、確かに壮大なアクション映画になります。
しかしホメロスは、そんなに単純なことをしていません。
オデュッセウスは嘘をつきます。
変装します。
自分が誰なのかを隠します。
ペネロペもまた、何を知っているのか、何を知らないのかが簡単にはわからない人物として描かれます。
そして帰ってきた英雄は、自分の家で激しい暴力を振るいます。
英雄なのか。
加害者なのか。
夫なのか。
嘘つきなのか。
賢者なのか。
戦争から帰れなくなった男なのか。
ホメロスは、簡単には答えてくれません。
エミリー・ウィルソンのすごさは、ここにある
私はこれまで、エミリー・ウィルソンについて何度か書いてきました。彼女の翻訳についても書きました。
古典を現代に開くことについても書きました。
ノーランの映画に対する彼女の厳しい評価についても書きました。
しかし今回、LRBで彼女が話すのを聞いていて、彼女をもう少し違う角度から評価する必要があると思いました。
優れた古典学者とは、古い作品について誰よりも多くの知識を持っている人なのでしょうか。
もちろん、それも必要です。
しかし、それだけではない。
私たちがすでに知っていると思っている作品から、まだ考えたことのない問いを取り出してくれる人。
それもまた、優れた古典学者なのだと思います。
『オデュッセイア』は旅の物語です。
それは間違っていません。
しかし「旅の物語」というラベルを貼った瞬間に、見えなくなるものもあります。
動き続けるオデュッセウス。
動かずに待ち続けるペネロペ。
永遠の時間を差し出すカリュプソー。
故郷へ帰ったのに故郷だとわからない男。
二十年前の家族を取り戻そうとする人々。
そうしたものを一つずつ見ていくと、『オデュッセイア』は別の物語として立ち上がってきます。
旅をする物語であると同時に、動かない物語。
未来へ進む物語であると同時に、過去を取り戻そうとする物語
そして何より、
止めることのできない時間のなかで、
それでも人間は何を守ろうとするのか。
という物語です。
3000年近く読み継がれてきた作品について、まだこんな問いが残っている。
私は最近、それこそが古典を読む面白さなのではないかと思うようになりました。
古典とは、昔の人がすでに答えを出した本ではありません。
読むたびに、こちらに新しい問いを返してくる本なのだと思います。◾️
#オデュッセイア
https://note.com/proper_clam757/m/mc335d296a167
初出:note、2026年8月14日。Fabio Caipirinha の恒久アーカイブとして収録(本サイト掲載:2026年10月15日)。原文:https://note.com/proper_clam757/n/n8d5969955c95