『ゴドーを待ちながら』で知られるアイルランドの作家、サミュエル・ベケット。1969年にノーベル文学賞を受賞した、20世紀を代表する作家の一人です。
そのベケットが1936年9月から翌年4月まで、ナチス政権下のドイツを旅していました。
訪れたのは、ハンブルク、ベルリン、ドレスデン、ミュンヘンなど、およそ30の都市や町。目的の一つはドイツ語を学ぶこと、もう一つは美術を見ることでした。
ところが、美術館を歩くうちに、ベケットは別のドイツを見ることになります。
ナチスの文化政策によって展示から外された絵。収蔵庫へ追いやられた作品。芸術家や収集家との会話。そして、街の中へ少しずつ浸透していく独特の政治用語。
ベケットは、それらを細かくノートに書き留めていました。
「もうすぐ本当に吐きそうだ。それとも家に帰るか」と書いています。政治への嫌悪だけが理由だったわけではありません。彼は体調不良や金銭問題、書けない苦しさも抱えていました。だからこそ、このノートは後から整えた政治的証言ではなく、一人の若い作家が不安定なまま時代を見ていた記録として読めます。
ヒトラーの演説に熱狂する人々を見て、戦争が近いのではないかと感じたことも記しています。一方で、あからさまに体制を批判することは危険でした。ノートそのものが押収される可能性もあったからです。
ナチス式敬礼を求められたとき、ベケットはわざと違う腕を出すこともあったそうです。
大きな抵抗ではありません。
でも、こういう小さな場面が残っているところに、このノートの面白さがあります。
ベケットが残したのは6冊でした。
本文だけで約12万語。細かな手書き文字で埋められたノートは、1989年にベケットが亡くなったあと、パリの自宅に残された資料の中から見つかりました。
そして2026年8月20日、ドイツの出版社Suhrkampから、初めて全体が刊行されます。独英対訳で、全1,352ページに及ぶ大部の本です。
[画像省略:Very dubious at the moment’ … Samuel Beckett’s 1936 notebook. Photograph: Laura Bennetto]
文学史上の発見としては、かなり面白い話です。
ところが、詳しく知るほど、私は少し居心地の悪さも感じました。
ベケットは、このノートを私たちに読ませるために書いたわけではないからです。
歴史資料としての価値は、たしかにあります。
ベケットは何十年も後になって記憶を整理し、回想録を書いたのではありません。その場で見たものを書いています。
街の服装。
政治の決まり文句。
美術館から消えた作品。
人々との会話。
ナチズムが大きな政治事件としてではなく、日常の中へ少しずつ入り込んでいく様子が残されています。
そして、このノートはベケットという作家の見え方も少し変えます。
彼は、人間の孤独や不条理を描いた作家として知られています。しかしノートを見ると、当時の政治状況をかなり注意深く観察していたことがわかります。数年後、ベケットはフランスでレジスタンス運動にも参加しました。
だから研究者が読みたいと思うのはよくわかります。
私も読みたい。
でも、そこで問題が終わるわけではありません。
このノートには政治や美術の観察だけが書かれているのではありません。
悲しみ。体調不良。お金の悩み。書けない苦しさ。そして、本人なら公表しなかったかもしれない私生活まで残っています。
むしろ、誰かに読ませるために整えられていないからこそ、歴史資料として面白い。
ここに難しさがあります。
編集者側には一つの考えがあります。
ベケットは生前、残したくない資料の一部を自分で処分していました。それなのに、この6冊は捨てなかった。だから、後世に残ることを完全には拒んでいなかったのではないか。
確かに、重要な手がかりだと思います。
しかし、残したことと、公開を許可したことは同じでしょうか。
私はここが引っかかります。
私自身、長いあいだノートや記録を残してきました。
あとから読み返すと、「こんなことを考えていたのか」と驚くことがあります。考えがどう変わったのかを見るためにも、記録を残すことには意味があると思っています。
だから、ベケットの6冊のノートを完全に他人事として読むことができませんでした。しかも、私たちはベケットよりはるかに多くの記録を残しています。
メール。写真。スマートフォンのメモ。クラウドに置いた下書き。検索履歴。メッセージ。途中まで書いて忘れている文章。
本人さえ覚えていないものが、どこかに残っています。
では、それらはいつまで「私のもの」なのでしょうか。
死後なら、家族は読んでよいのでしょうか。
研究者ならよいのでしょうか。
社会にとって重要な記録になれば、公開してよいのでしょうか。あるいは、有名人でなければ問題にならないのでしょうか。
ベケットのノートは1930年代のドイツを記録したものです。
しかし、そこから生まれる問いは、驚くほど現代的です。記録を残すことには、大きな価値があります。
同時に、残すことと、読まれることは同じではありません。
保存した瞬間に話が終わるのではない。
むしろその記録が残ったからこそ、未来の誰かに新しい判断が生まれます。
これは読むべきものなのか。
それとも、読まずに残すべきものなのか。
ベケットが私たちに残したのは、6冊のノートだけではないのかもしれません。簡単には答えの出ない問いも残したのだと思います。◾️
参考資料
The Guardian, 2026/8/15
“‘Soon I’ll really start to puke’: Samuel Beckett’s travels around Nazi Germany”
https://www.theguardian.com/culture/2026/aug/15/samuel-beckett-german-diaries-nazism#img-3
初出:note、2026年8月24日。Fabio Caipirinha の恒久アーカイブとして収録(本サイト掲載:2026年10月15日)。原文に掲載されている第三者の画像は、権利上の理由により本アーカイブでは省略しています。原文:https://note.com/proper_clam757/n/n6371f1eb5593
カバー画像:カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ《月を眺める二人の男》(Public domain, Wikimedia Commons/出典)