カバー画像:ドゥッガ出土のローマ時代のモザイク《オデュッセウスとセイレーン》(2世紀、チュニス・バルド国立博物館)、写真:Carole Raddato(CC BY-SA 2.0/Wikimedia Commons)

『#オデュッセイア』は、英語で読んだほうが原典に近い。
私は、そう思っていました。なぜなら原作はギリシャ語の作品です。日本語よりヨーロッパの言語のほうが近いだろうと。

ところが、岩波文庫(松平千秋訳)で読んでみると、これはこれでとてもおもしろいんですよね。ストーリーの流れだけではなくて、一つ一つのセリフや表現が現代語とも異なる。言葉はわかりやすいのに、言い回しが少し古い。その古さが、3000年前の物語を読んでいるという実感を連れてきてくれる。これはこれでいい。古めかしさも日本語ならではの気もしてくる。

同じ言葉は、同じ言葉で訳す

日本語訳ということについて、もう少し考えてみます。
2022年、古代ギリシャ文学者の中務哲郎が、新しい訳を出しました。方針は一つです。

「同じギリシア語は同じ日本語に訳す」

当たり前に聞こえます。けれど、本来翻訳といのは、同じ言葉が続くと、くどくならないように言い換える訳も多いんですよね。

しかし『オデュッセイア』は、もともと声で語り継がれた叙事詩でした。人物や物に決まった形容がつき、同じ言い回しが何度も戻ってきます。

ある計算では、12,110行のうち9,250行以上が、繰り返しの行か、繰り返しの語句を含む行だといいます。反復は無駄、ではありません。ホメロスの語り方がそもそも、そういうものなのです。

たとえは、「夜明け」を告げる定型句は、20回繰り返されます。中務はそのたびに「薔薇色の指を開く曙女神」と訳しました。朝日が八方に光を放つ姿を、詩人は女神が指を開くように見たのではないか。そう解釈したからです。

ホメロスには、口を「歯の垣根」、船を「海の馬車」、櫂を「船の翼」と呼ぶ表現があります。
意味だけを伝えるなら、もっと自然な日本語に置き換えることもできます。たとえば「歯の垣根」は、単に「口」と訳しても話は通じます。それでも中務は、あえて「歯並の垣根」という少し奇妙な表現を残しました。こうした言い回しが何度も繰り返される、ホメロス特有の語り方を消したくなかったからです。

また、「海の馬車」で船を、「船の翼」で櫂を表すように、一つのものを別の言葉の組み合わせで描く表現をケニングといいます。中務は、それも日本語の中に残そうとしました。意味だけを訳すのではなく、ホメロスが世界をどう見ていたかまで訳そうとしたのです。
とても興味深い。

近さを決めるのは、言語ではなかった

中務は、自分の方針がどれほど珍しいものなのか、日本語・英語・ドイツ語の複数の翻訳を比べて確かめています。その中で、原文の繰り返しを最も忠実に残していたのが、アメリカの古典学者・翻訳者リッチモンド・ラティモアによる1965年の英訳でした。ラティモアはホメロスの『イリアス』『オデュッセイア』の英訳で知られ、古代ギリシャ語の語順や反復をできるだけ英語にも残そうとした翻訳者です。彼の訳は、長く英語圏の大学でも読まれてきました。

一方、中務が調べた限り、日本語訳には「同じギリシア語を同じ日本語で繰り返す」ことを徹底した前例は見当たりませんでした。だからこそ、それを自分の新訳の柱にしたのです。

英語のほうが原典に近い…?
私の直感は、この点では外れていなかったことになります。けれど、それは「英語だから」ではありません。その訳者が、何を残すと決めたかなのだと思います。「原典に近い」を決めるのは言語ではなく、訳者の方針ということなのかもしれません。

方針が、ほころぶところ

ただし、この方針は完璧には貫けません。
たとえば、「非の打ち所なき」という決まった形容が、王を殺した姦通者アイギストスにまで付いています。訳語を固定したからこそ生まれる矛盾です。中務は、この表現は美貌のことを言っているのか、語の本来の意味が忘れられていたのだろうか、などと推測を示しています。

敬語も同じです。古代ギリシャ語に敬語はありません。ところが日本語では、人間関係に応じて話し方を選ばなければ不自然になります。同じ言葉で喜びを表すのに、中務はテレマコスの帰還を迎える召使には「帰りなされたか」、母親には「帰って来てくれたか」と訳し分けました。それでも、男ことばと女ことばの違いは小さく、神への敬語も過剰にならないよう心がけたそうです。

原文をそのまま残したい。
けれど、日本語にした瞬間、選ばなければならないことがある。

日本語で読むことで、見えたもの

松平訳の古めかしさと、中務訳の反復。
二つの日本語は、同じ原典に、別々の道から近づいています。どちらが「近い」のか、は簡単には言えません。

ただ、はっきり言えることがあります。異質な原典を訳そうとする営みが、日本語の重さや響きを、見せてくれたということです。

日本語で読むことは、ホメロスから遠ざかることではないのだと思います。日本語という、もう一つの道から向かうことなのだと思いました。◾️

参考情報

中務哲郎「『オデュッセイア』を訳し終えて」日本西洋古典学会(新刊書フォーラム)
https://clsoc.jp/agora/newbooks/2022/220706.html
同じギリシア語は同じ日本語に訳すという方針、エピセット、定型句、「歯並の垣根」「薔薇色の指」、敬語の問題、ラティモア訳への言及は、すべてこの一次資料によります。

ホメロス/中務哲郎訳『オデュッセイア』京都大学学術出版会(西洋古典叢書)、2022年7月

ホメロス/松平千秋訳『オデュッセイア』(上・下)岩波文庫、1994年


初出:note、2026年10月20日。Fabio Caipirinha の恒久アーカイブとして収録(本サイト掲載:2026年11月4日)。原文:https://note.com/proper_clam757/n/ncfdde2bb4b8b

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