『ゴッドファーザー』が好きです。
どれくらい好きなのか、と聞かれると困ります。
もう二十年以上、何度も観てきました。
大学時代には、映画のテーマ曲を口笛で吹きながら廊下を歩いていると、姿が見える前から友人たちに「あ、Fabioだ」と気づかれるくらいでした。もう昔の話です。笑
noteでも、長いあいだ『ゴッドファーザー』の一場面をプロフィール画像に使っていました。
それなのに、私はこれまで、この作品についてまとまった文章を書いたことがありませんでした。
なぜだろう、とずっと思っていました。
好きではないからではありません。
むしろ逆です。
好きすぎたから、何を書けばいいのか分からなかった。
作品について書くこと自体は、それほど難しくありません。あらすじを書くこともできる。登場人物を分析することもできる。
「『ゴッドファーザー』から学ぶリーダーシップ5選」のような文章だって、作ろうと思えば作れます。
でも、なんかそういういわゆるnote風とか、Substack風のものを書きたくなかったんですよね。
親分ヴィトー・コルレオーネを「優れたリーダー」と呼んだ瞬間に、何か大切なものがこぼれ落ちる気がしたからです。
後継者の三男マイケルを「意思決定のケース」として整理してしまえば、あの物語を見たときに感じたものとは、まったく別のものになってしまう。そんな気がしていました。
長く好きだった作品ほど、こういうことが起きる気がします。うかつに、というか、気安く、というか、とにかく簡単に、説明できなくなるのです。
なぜなのか考えてみました。
いろいろ考えてみたのですが、たぶん、好きなものには、自分の時間がくっついているからかもしれません。
初めて読んだ場所。
一緒に観た人。
その頃住んでいた街。
映画を観終わったあとに考えていたこと。
原作を辞書を引きながら苦労して読み上げた達成感。
何年か経ってから、同じ場面を見たときに感じたこと。
作品そのものと、自分の記憶を切り離すことができなくなっていく感じ、があるんですよね。だから、作品について書こうとすると、いつの間にか自分の人生まで引っ張り出されてきます。単なる作品評では済まなくなる。それはもはや自分の人生の一部を語る感じになっていく。
私は大学時代、ロンドンでマリオ・プーゾの原作を英語で読みました。
映画よりも先でした。
だから、私の頭の中に最初にいたマイケルには、アル・パチーノの顔がありませんでした。
そのあと映画を観て、何度も観直しました。
年月が経つにつれて、同じ物語なのに、気になる人物も場面も少しずつ変わっていきました。
若い頃には格好よく見えたものが、後になると別のものに見える。以前は気にも留めなかった短い場面が、妙に残るようになる。
作品が変わったわけではありません。
こちらが変わったんですよね。
長く付き合った作品には、自分がどう変わったのかまで刻まれてしまいます。
だから、好きな作品について書くというのは、案外怖いことなのかもしれません。書いた瞬間に、何かを固定してしまうから。本当はもっと複雑だったものに、一つの意味を持たせてしまうから。
自分の文章力が作品を語る熱量に追いつかないこともある。文章で表現されたものに自らの想いがうまく載せられない時、もどかしさを感じる。自分の能力不足を痛感させられたり。(なんか違うなぁ、もっとこういうことを言いたいんだよ)
満足できるものが書けたとしても、長いあいだ自分の中だけにあったものを文章にして出すことで、スッキリする部分と、自分の中から抜け出ていってしまった、という寂しい部分があったりする。
それが嫌だったのだと思います。
でも、書かなければ何も残りません。
記憶も少しずつ変わります。
感じたことも消えていきます。
感じたと覚えていることも失われていきます。
だから今回、初めてきちんと向き合ってみることにしました。
作品を「解説」するというより、その作品と一緒に過ごした自分の時間を書く。
そう考えたら、ようやく書けました。
『ゴッドファーザー』についての長い文章になりました。
二十年以上かかったことになります。ずいぶん時間がかかってしまったな、という思いもあります。でも二十年以上かかったからこそ、書けたことでもあると思っています。
よかったら読んでみてください。◾️
https://note.com/proper_clam757/n/n0dc4251aacb1
#ゴッドファーザー #マリオ・プーゾ
初出:note、2026年8月23日。Fabio Caipirinha の恒久アーカイブとして収録(本サイト掲載:2026年10月15日)。原文:https://note.com/proper_clam757/n/naa338c903aaf