先日、とても不思議な人物の話を知りました。
最近92歳で亡くなった俳優、ジョン・ベイシンガーという人です。
[画像省略:John Basinger (Wikipedia)]
九年を捧げた暗記読書
俳優として活動していた彼は、58歳のときに、ある挑戦を始めます。
それは、ジョン・ミルトンの叙事詩『失楽園』を暗記すること。
『失楽園』は、英文学史上の最高傑作のひとつとして知られています。
全12巻。約6万語。
アダムとイブの堕罪、サタンの反乱、自由意志と悪の問題を描いた、壮大な作品です。
考えただけでも気が遠くなりますね・・・。
ベイシンガーは、毎日少しずつ暗記を続けました。
1年でも2年でもありません。
9年間です。
そしてついに、全12巻を暗唱できるようになりました。
[画像省略:NY Times 記事から 2026. 6. 9.]
記憶力の話ではなかった
普通なら、ここで「すごい記憶力だ」と感心して終わる話かもしれません。
しかし私が興味を引かれたのは、その後でした。
心理学者たちが彼を研究しました。
これだけの作品を暗記できるのだから、さぞかし特別な記憶力の持ち主なのだろう。
誰もがそう考えます。
ところが調べてみると、そうではなかった。
彼の記憶力は、日常生活では驚くほど普通だったのです。
鍵をなくすこともある。
物忘れもする。
ごく一般的な人でした。
では、なぜ彼は『失楽園』を丸ごと頭に入れることができたのでしょうか。
研究者たちがたどり着いた答えは、興味深いものでした。
彼は、単純な暗記をしていたのではなかった。
作品を深く理解し、登場人物の感情を感じ、俳優として演じながら、作品の世界の中に入り込んでいたのです。
彼は『失楽園』を覚えたのではない。
『失楽園』の中に住んでいた。
そう表現した方が、近そうです。
情報を消費する時代に
現代は、情報の時代です。
私たちは毎日、大量の情報を消費しています。
本を読む。
記事を読む。
動画を見る。
AIに要約してもらう。
そして、次の情報へ移る。
もちろん、それ自体が悪いわけではありません。私自身も本を読み、記事を書き、多くの知識から学んでいます。
しかしときどき考えるのです。
本当に大切なのは、何冊読んだかではないのではないか。
むしろ、どの本が自分の中に住み着いたかではないのか。
戻ってくる本
実はつい最近、新しくリオープンしたばかりの神保町の三省堂で、『失楽園』を再購入しました。字が大きくて読みやすいのがあったので買ってみました。
読み返してみると、若い頃に読んだときには気づかなかったことが、今では見えてきます。
本の方が変わったわけではない。
それなら、人生経験が増えたからなのか。
自分が変わったからなのか。
同じ本を読んでいるはずなのに、まるで違う作品を読んでいるような感覚になることがあります。
良い本とは、一度読んで終わる本ではないのかも。
人生の異なる時期に、何度も戻ってくる本。
読むたびに、新しい顔を見せる本。
そして少しずつ自分の考え方や世界の見方を形作っていく本。
そういう本こそが、本当の意味で私たちの人生に残るのだと思います。
心の中の大聖堂
ベイシンガーはかつて、『失楽園』についてこう語ったそうです。
私の心の中にある大聖堂のようなものだ。
いつでも中に入り、歩き回ることができる。
美しい表現だと思います。
本を読むとは、知識を集めることだと思われがちです。
そして何冊読んだかを数えます。けれど人生を変えるのは、たいてい数百冊目の本ではありません。
しかし本当に優れた本は、知識以上のものを与えてくれます。それは人格の一部になり、思考の枠組みになり、人生を眺める窓になる。
ジョン・ベイシンガーは『失楽園』をただ記憶したのではなく、自分自身の一部にしたのだと思います。
あなたにとっての一冊は何か
あなたにとって、何年経っても戻ってしまう本は何でしょうか。
もし人生で一冊だけを十年かけて読み込むとしたら、あなたはどんな作品を選ぶでしょうか。
どんな本と大聖堂を作りたいですか。■
参考資料
John Basinger, who memorized all 12 books of Paradise Lost, dies at 92(The New York Times)
https://www.nytimes.com/2026/06/09/arts/john-basinger-dead.html
[画像省略]
- “This Man Memorized a 60,000-Word Poem Using Deep Encoding”(Nautilus)
https://nautil.us/this-man-memorized-a-60000_word-poem-using-deep-encoding-235941
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初出:note、2026年6月17日。Fabio Caipirinha の恒久アーカイブとして収録(本サイト掲載:2026年10月15日)。原文に掲載されている第三者の画像は、権利上の理由により本アーカイブでは省略しています。原文:https://note.com/proper_clam757/n/ne0904b17d190
カバー画像:ギュスターヴ・ドレによるミルトン『失楽園』の挿絵(Public domain, Wikimedia Commons/出典)