㊗ 2026年のノーベル文学賞は、カナダ出身の詩人アン・カーソンに贈られました!

76歳のカーソンは、古代ギリシャ文学の研究者であり、詩人、翻訳家、大学教師でもあります。文学の世界では高く評価されてきた人ですが、日本では今回の受賞で初めて名前を知った人も多いのではないでしょうか。かくいう私も名前を聞いたことがあったくらいで、詳しいことはほとんど知らなかったので調べてみました。実に興味深い人でした。

受賞の知らせが届いたとき、彼女はアイスランドの自宅で台所の床を掃いていたそうです。ノーベル賞の担当者から電話を受けると、驚きを隠さず、賞金をどう人に分けるかについても話したそう。文学賞の最高峰を受賞した人の日常としては、なんとも親しみやすい光景です。

では、アン・カーソンとはどんな人物なのでしょうか。

銀行員の父と、転居の多い子ども時代

カーソンは1950年、カナダのトロントで生まれました。父親は銀行員で、その仕事の都合から、家族はオンタリオ州の小さな町を何度も移り住みました。

大学では古典学を専攻し、イギリスのセント・アンドルーズ大学でも古代ギリシャ語を学びます。1981年には、古代ギリシャの女性詩人サッポーなどを研究した博士論文を完成させました。

この研究は後に『Eros the Bittersweet』という本になります。人が何かを欲すること、愛することには、なぜ喜びと苦しみが同居するのか。古代の文学を通じて考えた著作です。

カーソンは長く大学で古典文学を教えながら、文章を書き続けました。しかし、早くから作家として成功したわけではないようです。彼女の作品は、当初なかなか出版社に受け入れられず、最初の詩集『Short Talks』がカナダで出版されたのは42歳のときでした。

その後、評価が高まり、2000年には米国のマッカーサー・フェローシップを受賞します。独創的な仕事をしている人に贈られる、使途を限定しない研究・創作支援金です。

今回のノーベル文学賞まで、ずいぶん長い道のりがあった人なんですね。

三つの机を使って仕事をする

カーソンの仕事の仕方が面白いのです。

2004年に文芸誌『The Paris Review』が掲載したインタビューで、彼女は三つの机を使っていると話しています。

一つは学術研究、もう一つは文学の執筆、残る一つはアート制作のための机。

それぞれに別の仕事を広げておき、気の向くままに行き来します。1時間のうちに三つすべてを回ることもあるそう。

朝には散歩をし、お茶と朝食をとり、1時間ほど本を読む。辞書を引きながらフランス語でプルーストを読んだり。それからさっきの机に向かいます。

一つの仕事を終えてから次に移るのではなく、異なる仕事を同時に進める。カーソンは、それらが互いに影響し合うのだとしています。

古典学者、詩人、美術家という肩書きが、一人の人間の中で自然につながっているのかもしれません。

「何を考えているのか知るために書く」

同じインタビューで、カーソンはなぜ書くのかと尋ねられ、こう答えています。

何かについて自分がどう考えているのかを知るために書きます

この言葉が印象に残りました。

書く前から伝えたい結論が決まっているのではありません。書きながら、自分の考えを探しているのです。
これは最近私がいろいろなポッドキャスト番組や本から学んできたところとも重なります。

2004年のインタビューで、カーソンは自作「The Glass Essay」について、人生の感情を描くことはできても、その経験を十分に理解するところまでは届かなかったと振り返っています。そして、自分はまだ考え終えていない、とも語っています。

作品を書き上げることと、その題材を理解し尽くすことは、必ずしも同じではない、ということかもしれません。古代の詩や哲学を研究してきた人らしい、慎重な姿勢にも見えます。

学生には、何かを燃やしてその灰を使わせる?

カーソンは、夫であり創作上の協力者でもあるロバート・カリーと、ニューヨーク大学などで実験的な授業を行ってきました。

たとえば「EgoCircus」という授業。学生には、普通の作文課題とは違う指示が与えられます。

あるときは何かを燃やして、その灰を使って作品を作る。あるときは「航海、バター、死」という三つの言葉だけを渡して、何かを作らせる。
など、学生には文章以外の方法も試して、自分に何ができるのかを発見してほしかった、そう振り返っています。なかなかこんな授業できないですよね。教師としてのカーソンにも、研究や創作と同じ好奇心が感じられます。

アイスランドの、何もない風景

2024年の『The Paris Review』のインタビューは、アイスランドの首都レイキャビクにある彼女の住まいから、オンラインで行われました。

カーソンは、アメリカでは木や草花があまりにも多く、景色が込み入っているように感じると語っています。“America seems so cluttered, vegetatively.”

それに対して、アイスランドには溶岩と海があり、何もない空間が広がっている。その簡素な風景を好んでいるようです。

彼女は古いものや傷のあるものにも惹かれると語っています。古代ギリシャの文章は、完全な状態で私たちのもとへ届いたわけではありません。何世紀もの間に書き写され、傷み、失われた部分もあります。

カーソンは、そうした時間の痕跡を大切にしています。

彼女の作品に、断片的な文章や写真、普通の本とは違う形が登場することも、この感覚と関係しているのかもしれません。

何者かを決めなくてもいい

カーソンは、自分を詩人と呼ぶことにも、かつてはためらいを見せていました。しかし、彼女が実際にしてきた仕事を見ると、肩書きを一つに決めることが難しいのもわかります。

大学で古代ギリシャ文学を教え、詩を書き、絵を描き、夫と学生のための授業を考える。古典を翻訳する一方で、神話の怪物を恋する少年に変えた小説も書きました。

彼女の仕事の進め方はとても興味深いですね。
専門を深めることと、関心を広げることは、必ずしも矛盾しない、ということかもしれません。ただし、カーソンのように自由に仕事を行き来できるのは、長年にわたって古典文学を学び、言葉を扱う力を磨いてきたからでもあるはずです。

二足の草鞋どこらか、三つの机という話が面白いのは、単に複数の仕事を同時にしているからだけではなく、それぞれの机で考えたことが、お互いに影響しあっているからなのだと思います。

76歳でノーベル文学賞を受賞したアン・カーソン。
「ノーベル賞文学者」という新たな肩書が加わった彼女の多彩な活躍を今後も見守っていきたいと思います!■


主な参考資料


初出:note、2026年10月10日。Fabio Caipirinha の恒久アーカイブとして収録(本サイト掲載:2026年10月19日)。原文:https://note.com/proper_clam757/n/n6d8caecaba78

カバー画像:ポンペイ出土のフレスコ画「通称サッフォー」(1世紀、ナポリ国立考古学博物館)(パブリックドメイン/出典)