作家の話を聞くとき、私は精神論よりも実務を知りたくなります。

どうやって書き続けたのか。
うまくいかなかった原稿をどうしたのか。
書けなくなったとき、どう戻ってきたのか。

今回聴いたのは、サルマン・ラシュディのインタビューです。

『真夜中の子供たち』でブッカー賞を受賞し、のちに「ブッカー・オブ・ブッカーズ」にも選ばれた作家です。
このブッカー・オブ・ブッカーズとは、つまり、ブッカー賞に選ばれた作品群の中から第一位に選ばれた作品、ということになります。
それがラシュディの代表作『真夜中の子どもたち』でした。

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今回の話を聞いていて面白かったのは、成功の秘訣ではありませんでした。

300ページ書いて、捨てる。
長さの合わない原稿を、何年も脇に置く。
書けなくなったら、自分宛ての手紙を書く。

世界的な作家の仕事も、意外なほど地道だったということです。

締切までに書く力は、才能とは別に鍛えられる

ラシュディは若い頃、広告会社で働いていました。
生活のための仕事でしたが、そこで身についたものがあると言います。

締切までに書く力です。

広告では、「今日は気分が乗らない」は通用しません。明日必要なら、明日までに言葉を出さなければならない。

しかも周囲には優れたコピーライターやクリエイターがいて、彼自身もCM制作に関わりました。

ここで私が面白いと思ったのは、創作を神秘化していないことです。

「書きたい」と「書ける」は違う。

書くことにも筋力があり、その一部は仕事の中で鍛えることができるんですよね。

300ページ書いても、捨てていい

若い頃、ラシュディはある小説を300ページほど書きました。

しかし読み返してみると、トマス・ピンチョンの影響が強すぎた。自分の作品というより、誰かの作品から派生した、しかも出来のよくないものになっている。
彼はそう判断して、誰にも見せませんでした。

別の作品では、アイデアそのものは良かったのに、実験的な技巧を使いすぎて「読めない」作品にしてしまったとも振り返っています。

ここには、かなり厳しい姿勢があります。
300ページ書いたからといって、300ページを救う義務はない。
ただ、「自分には才能がない」で終わらせるのでもない。

何が悪かったのかを見る。

模倣だったのか。
技巧を使いすぎたのか。
読者が入れないものになったのか。

ラシュディは「間違いは何かを教えてくれる」という趣旨のことを話しています。

失敗作にも、仕事は残っているのです。
でも、捨てずに待った方がいい原稿もある

ところが、次の話では逆のことが起きます。
短編集 The Eleventh Hour の核になったゴースト・ストーリーは、約75ページありました。

短編には長い。
長編には短い。

どこに置けばいいのかわからない。
代理人のアンドリュー・ワイリーに相談し、いったん脇に置くことにします。

すると、その後また長めの作品が生まれた。さらにもう一つ。

やがて五つがそろったところで、ラシュディは「これなら一つの作品になる」と感じます。

この話が私は好きなんですよね。
うまく収まらない原稿は、失敗とは限らない。
まだ居場所が見つかっていないだけかもしれない。
無理に短くする必要もない。
長編に膨らませる必要もない。

書くことには、書かない時間もある。
捨てるべき原稿と、待つべき原稿。
その違いを見極めるのも、作家の仕事なのだと思います。

書けなくなったとき、彼は自分に手紙を書いた

2022年8月、ラシュディは講演中に襲撃され、重傷を負いました。

再び書き始めたのは、翌年1月頃だったと話しています。その際、最初から「本を書こう」としたわけではありません。

まず書いたのは、自分宛ての手紙でした。

これから自分は何を書くのか。
なぜ、それを書くのか。

まず自分に説明した。
その文章が、やがて出版社にも見せられるものになっていきます。

襲撃そのものを書く部分は、なかなか進まなかったそう。しかしそこを越えると、文章は流れ始めた。全体は約6か月で書き上げました。

さらに彼は、自分が襲われた場所へ戻ります。
「自分がそこに立っている姿を見る」必要があった、と語っています。

私はここで、少し立ち止まりました。
書くだけでは終わらなかった。
自分の足でそこへ戻り、自分がまだそこに立てることを確かめる。

そして本を書き終え、その場所にも戻ったあと、再びフィクションのアイデアが浮かび始めた。

これは創作論というより、もっと人間的な人としての生き方、の話にも聞こえます。

想像の世界へ戻ろうと焦るより、先に現実と言葉で向き合わなければならないことがある。

そういう順番もあるのかもしれません。

笑いは、権力を小さくする

もう一つ印象に残ったのが、ユーモアの話です。
ラシュディは、自分の作品の「面白さ」が見落とされがちだと言います。

特に『悪魔の詩』は、その後に起きた出来事があまりに大きかったため、深刻な本として読まれすぎた。

けれど彼にとって、笑いは重要でした。
彼は、コメディは暴政の大敵になり得る、と話します。
曰く、権力を持つ人間は、笑われることを嫌う。

なるほどと思いました。

笑いは、文章を軽くするためだけにあるのではない。
巨大に見えるものを、小さくすることができる。
威厳のある人を笑った瞬間、その人を包んでいた魔法が少し解ける。
ユーモアもまた、世界を見る方法なんですよね。

AIが書ける時代に、作家は何をするのか

対談ではAIの話も出てきます。
友人がChatGPTに「ラシュディ風の1ページ」を書かせたところ、あまり出来が良くなく、ラシュディは少し安心したそうです。

もっとも、AIは速く学習しているとも認めています。

ここで私は、先ほどの75ページの原稿を思い出しました。

一つのゴースト・ストーリー。
それとは違う別の作品。
さらに別の作品。

それぞれは似ていない。
それでも五つが並んだとき、ラシュディは「これは一冊になる」と感じた。

これはラシュディ自身がAIについて語った結論ではありませんが、私が対談を聴いていて考えたことです。

AIは文章を書ける。何ページも書ける。
特定の作家に似た文章も、これからもっと上手くなるでしょう。

それでも、作家には作家に残る別の仕事があります。

何を残すか。
何を捨てるか。
何を待つか。
何と何を隣に置くか。

そして、ばらばらだったものを一つの作品にする。

文章を生成することと、作品をつくることは、同じではないのかもしれません。

書くことは、もう少し「扱える」ものなのかもしれない

このインタビューを聴いて、私は少し安心しました。
ラシュディほどの作家でも、すべてが霊感から生まれているわけではない。

締切までに書く。
失敗の原因を考える。
捨てる。
待つ。
書けなくなったら、自分への手紙から始める。
そして、ばらばらのものを束ねる。

もちろん、それで誰でもラシュディになれるわけではありません。

でも、書くことの全部が才能や神秘でもない。

自分で扱える部分が、思っていたよりずっと多い。

今回の対談から学んだ一番大きな収穫でした。

書くことは孤独です。
でも、その孤独の中にも、手順がある。
それなら、今日できることがあります。

出典

Always Take Notes, Episode 228, “Salman Rushdie, novelist”インタビュー文字起こしをもとに構成。

https://www.alwaystakenotes.com/episodes/228-salman-rushdie-novelist


初出:note、2026年8月17日。Fabio Caipirinha の恒久アーカイブとして収録(本サイト掲載:2026年10月15日)。原文:https://note.com/proper_clam757/n/n5c2929668c80

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