先日、アイルランド大使館で開かれた、ブッカー賞作家ポール・リンチさんのイベントに参加しました。
https://www.hayakawabooks.com/n/na010875b06d7
ポール・リンチは1977年生まれのアイルランド人作家です。2013年に小説家としてデビューし、2023年には『預言者の歌』でブッカー賞を受賞しました。
現在、この作品は40カ国語以上に翻訳されているそうです。
https://www.hayakawa-online.co.jp/shop/g/g0005210514/
当日は、翻訳者でありアイルランド文学の研究者でもある栩木伸明先生との対談、朗読、質疑応答が行われました。
独裁。恐怖。家族。神話。文学。
そして作家は、「自分の内側にあるものを書かなければならない」ということ。
いろいろ勉強になるステキなイベントだったので、レポートします! 🇮🇪
これは未来の話ではない
『預言者の歌』は、アイルランドを舞台にしたディストピア小説として紹介されることが多い作品です。
ディストピアとは、理想郷の反対です。
管理、暴力、監視、独裁などによって、人間らしい生活が失われた社会のことを指します。
ただ、ポール本人は、自分の作品が単なるディストピア小説として読まれることには少し距離を置いているようでした。
彼は、この小説を「精神的なつながりについての本」なんだと語っていました。
もちろん、小説は出版された瞬間から読者のものになります。読者がどう読むかは自由です。
実際ポールはたとえばイギリスでは本作を、ジョージ・オーウェルの『1984年』と重ねて読む人もいると言っていました。確かに近しいものは感じます。
けれどポールは、この作品で描かれていることは、ディストピア的な抽象的な概念ではない、と言います。
もう現実に起きていることなのだ、と。
独裁は、ある朝突然始まるわけではない
印象的だったのは、恐怖は日常生活の中から始まる、という話。国家が変わってしまっている。けれど、その変化は少しずつ起きる。
だから人々は、すぐには気づかない。
これは、『預言者の歌』の重要な構造でもあります。
ある日突然、世界が壊れるのではありません。
少しずつ変わっていく。少しずつ慣れていく。
少しずつ、異常が日常になる。
気づいたときには、もう以前の世界には戻れなくなっている。
この怖さが、作品の奥に流れています。
ポールは、自作の三作目から過去形ではなく現在形で小説を書くようになったそうです。過去に起きたこととしてではなく、今まさに起きていることとして向き合いたかった、と語っていました。
この「現在形」の感覚が、『預言者の歌』にも強く出ています。
昨今の世界情勢を見ていると、これは遠い未来の悪夢ではありません。
いま起きていることとして読むべき小説なんだと思います。
作家の仕事は、答えを出すことではない
ポール・リンチは、チェーホフの言葉にも触れていました。
作家の仕事は、答えを出すことではない。
問いを出すことだ。
これはとても大事な話だと思いました。
現代ではすぐに答えが求められます。
SNSでは、意見をはっきり言うことが評価されます。
「これは正しい」「これは間違っている」と、すぐに結論を出すことが求められます。
しかし、文学は違いますよね。
文学は、すぐに答えを出さない。
むしろ、問いを深くする。
不安を消すのではなく、不安の中に読者を連れていく。
ここでポールは、「Negative Capability」という言葉にも触れていました。
これは詩人 ジョン・キーツ の有名な言葉です。
日本語にすると、「答えの出ない状態に耐える力」と言えるかもしれません。
分からない。
決めきれない。
曖昧である。
不確かである。
それでも、その状態にとどまる力。
ポールは、文学にはこの力が必要だと語っていました。
政治家はしばしば、「何かを変える」と言います。
けれど、「変える」と言った瞬間、そこにはすでに答えがあります。
文学は、そうではありません。
文学は、問いを投げる。
不確実性を高める。
読者を、簡単には答えの出ない場所へ連れていく。
暗い物語にも、美しさは必要である
ポール・リンチの作品は、しばしば「暗い」と言われるそうです。
たしかに『預言者の歌』は、軽い小説ではありません。
読んでいて苦しくなる場面も多い作品です。
けれど彼は、暗い物語を書くときにも、美しさを入れることを忘れないようにしている、といいます。
これはとても印象的でした。
ただ悲惨なものを書くのではない。
ただ読者を苦しめるのではない。
暗闇の中に、美しさを置く。
だからこそ、読者はその世界に入っていけるのだと思います。
本作を翻訳した栩木先生も、声に出して読むと文章が立ち上がってくる、と話されていました。小説は、意味だけでできているのではありません。
ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』も、ポール・リンチの作品も、声に出すことで初めて分かるリズムがある、と。
音。呼吸。
リズム。沈黙。
そういうものによっても、文章は立ち上がってくる。
このあたりは、アイルランド文学の伝統、という気がしますね。
さすがは物語の国、アイルランド。
「深淵」を見るなら、責任がともなう
対談の中で、安置所のシーンについての話もありました。
読者からは、一生忘れられない場面だと言われることもあるそうです。
ポールは、その場面を書くのに何カ月もかかったと言っていました。
そのシーンは、コロナ禍の時期に書かれたそうです。
辛すぎて、子どもたちがいる家では書けず、1週間ほど地方に行き、小屋の中で書いたと語っていました。
そして彼は、このシーンについて話したのちに、こういう趣旨のことを言っていました。
ぜひ深淵をのぞいてください。目を背けないでください。
でものぞいたなら、責任がともないます。
その責任を一緒に背負ってください。
これは、作家としても読者としても、文学と向き合うときに求められる覚悟の話だと思います。
悲惨なものを書くなら、ただ刺激的に消費してはいけない。人の苦しみを書くなら、それに対する責任を負わなければならない。
それでも、見なければならないものがある。
書かなければならないことがある。読まないといけないものがある。
ポールの静かな語り口の奥には、その厳しさがありました。
小説は、他人の人生を経験する器である
もう一つ印象的だったのは、彼が「Radical empathy」という言葉を使っていたことです。
直訳すれば、「根源的な共感」や「徹底した共感」という意味になるでしょうか。
これは、単に主人公を「かわいそうだと思う」ことではないと思います。
他人の人生を、自分の内側で経験すること。
自分とは違う人間の恐怖、混乱、痛み、希望を、物語を通して生きてみること。
それが文学なんだと言いたいのだと思います。
彼は、小説は「container」のようなものだとも話していました。日本語にすれば、「器」ですね。
小説とは、読者がその中に入る器である。
そこで読者は、他人の人生を経験する。
理解するのではなく、感じる。
説明されるのではなく、生きてみる。
だから文学には力があるのだと思います。
英雄ではなく、母親の視点から神話を書く
ポールは、ギリシャ神話や『イリアス』にも触れていました。
神話というと、英雄の物語だと思われがちです。
アキレウスやヘクトルのような英雄がいて、戦いがあり、運命があります。
けれど、『預言者の歌』の中心にいるのは英雄ではないんですよね。
四人の子どもを持つ母親です。
国が変わっていく。
社会が壊れていく。
それでも彼女は、日々の生活を続けなければならない。
子どもたちを守らなければならない。
この視点が重要。
神話は、英雄だけのものではありません。
トロイの名もない船乗りにも、母親にも、子どもにも、それぞれの神話がある。
大きな歴史は、いつも普通の人々の生活を巻き込んでいきます。
ポールは、その普通の人の視点から、現代の神話を書いているのだと感じました。
読む筋肉が弱くなっている
彼は、現代の若い人たちについても少し触れていました。
大学で教えることもあるそうですが、今の若い人は「読む筋肉」が弱くなっている、と語っていました。
英語では “reading muscle” 。おもしろいですね。たしかにそうかもしれません。
長い文章を読む力。
複雑な文章に耐える力。
すぐに答えが出ないものを読み続ける力。
分からないまま、ページを進める力。
それは、筋肉のように鍛えなければ弱っていく。
SNSの影響もあるだろう、と彼は言っています。
短い言葉。
すぐ分かる主張。
即座の反応。
そういうものに慣れるほど、複雑なものを読む力は落ちていく。
しかし、文学はその逆を求めます。
すぐ分からないものに向き合うこと。
複雑なものを、複雑なまま受け止めること。
自分の中に、他人の人生を入れること。
読むことは、やはり訓練なのだと思います。
書かなければ、それはあなたを滅ぼす
イベントの最後、サイン会もしてくれたので、ポールと栩木先生からサインをもらいました。
その際、どうしても伝えたいことがありました。
それは、ブッカー賞の授賞式で彼が引用していた言葉に強く感銘を受けた、ということ。
授賞式のスピーチで彼はこう語っていました。
https://www.youtube.com/watch?v=YA-91yS62ZM
“If you use what is within you, what is within you will save you.
If you do not use what is within you, what is within you will destroy you.”
「内に秘めたものを外へ出さなければ、それはいつかあなたを滅ぼすだろう。けれど、それを言葉にし、外へ解き放つことができれば、それはあなたを救うかもしれない。」
私はこのように理解しています。
それを伝えると、彼は少し静かに、
“I think, that is the greatest wisdom.”
と言いました。
「私はそれが最も偉大な知恵だ、と思っている。
覚えてくれていてありがとう」
と。
その瞬間、このイベントで語られていたことが、すべて一本につながったように感じました。
文学とは、世界を見ること、他人の人生を引き受けること。
答えの出ない問いに耐えること。
深淵をのぞき、その責任を負うこと。
そして何より、自分の内側にあるものから逃げないこと。
書かなければ、それは自分を壊す。
でも書けば、救われるかもしれない。
重い言葉です。
最後に…
ポール・リンチさんはとても穏やかで紳士的な人でした。
通訳の合間に、自分の話をどこで切るかのタイミングも完璧でした(通訳の方も本当に素晴らしかったです)。
話し慣れていて、知的で、静かで、オシャレで、ずるいくらい、かっこいい人でした。
でも、その静けさの奥には、文学に対する非常に厳しい姿勢がありました。
目を背けるな。
問いを閉じるな。
深淵を見よ。
そして、内側にあるものを書け。
とても学びの多い、楽しいひとときとなりました。
アイルランド大使館、早川書房さんに感謝します。■
参考情報:
https://fabiocaipirinha.com/archives/2726
Paul Lynch speaks at the Booker Prize 2024 ceremony | The Booker Prize
https://youtu.be/m_6bIsNkawE?si=vlqaf5ASJxfxX5TW
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初出:note、2026年5月31日。Fabio Caipirinha の恒久アーカイブとして収録(本サイト掲載:2026年10月15日)。原文:https://note.com/proper_clam757/n/n631d78c82ec6